研究員紹介
植田 今日子(教養学部地域構想学科)
消滅しない集落を訪ねて



 今朝(2013 年 9 月 25 日)読んだ新聞によると、かつて携帯電話の世界シェアの 2 割を占めたカナダのブラックベリーと、世界シェアナンバーワンに14 年連続君臨したフィンランドのノキアが、スマートフォン普及の波に乗り遅れて端末事業を売却する、ということだった。携帯電話業界も盛者必衰、消費者の心は秋の空、という感慨を抱いたのではない。この売却されることになった組織で働いていた人たちはいったい、会社をどんな思いで眺めているのだろうということだった。というのもわたしは消滅しそうになった集落をこれまで歩いてきたからだ。

 グローバル企業の携帯端末事業部と日本の小さな集落とを比べるのはあまりにも突飛かもしれない。けれどわたしが思わず売却されることになった大企業と小さな集落を重ねてしまったのは、自分の人生よりもずっと長生きであるはずだった組織が、自分の目の黒いうちに無くな ってしまうかもしれない局面を迎えているという意味でよく似ていたからである。

 いざ無くなるかもしれない状況にいたってはじめて、当たり前のように所属してきた組織の存在意義がうかびあがってくるのは、それがグローバル企業でも町工場でも同窓会でも変わりはないだろう。今日までその組織を存続させようとしてきた人たちが確かにいたことや、その組織が果たそうとしてきた何らかの目的があったことが、その行く末が問われることで浮かび上がってくる。まるで映画のエンドロールが出てきてはじめて作品の伝えたかったことが胃に染み渡るように伝わってくるように。


植田先生の写真
(うえだ きょうこ)
1997年 京都外国語大学 外国語学部 フランス語学科卒業
1999 年 University of London, Institute of Education, M.A.
2002年 筑波大学大学院 環境科学研究科文化生態学研究室 修士課程修了
2008年 筑波大学大学院 博士課程 人文社会科学研究科修了
2010 年 東北学院大学 教養学部 専任講師
2013 年 東北学院大学 教養学部 准教授

 そもそもなぜわたしが消滅しない集落を訪ね歩くことになったのかについて説明をいそがなければならない。はじめてのフィールドワークの地となったのは川辺川ダムの水没予定地としてありつづけていた熊本県の五木村の集落であ った。この集落では計画が発表された1966 年以降現在に至るまで、できるかどうかわからないダムの行く末をみつめてきた。すでに水没予定地では計画をめぐって賛成派、条件つき賛成派、反対派と三つの異なる立場が交渉や運動を展開し、それぞれが順に補償交渉に終止符をうっていく。多くの公共事業のように水没予定地村民の意思決定を待たずに、ダム着工に向けて道路工事などの既成事実が積み重ねられていった。やがて村内には補償を受け取って村を去る者もでてくる。ついには反対派も補償交渉を妥結するに至る。

 わたしがフィールドワークで五木村の水没予定地をはじめて訪ねた頃(2000 年)は、計画発表から 34 年の歳月を経ており、かつて激しく対立した三つの団体は、国や県に対し揃って「早期着工」を訴えている段階にあった。清流が集落を縫うように流れる五木村で、のどかだった村を一変させる対立をしなければならなかったはずの人たちが、なぜ揃ってさんざん苦しめられたはずのダムの「早期着工」を訴えていたのか。しかしその答えは水没予定地の住民たちにはあまりにも明白だった。

 1981 年に賛成派の二団体が移転のための補償案を受け入れると、以後たった 3 年の間に水没予定地に位置した集落(高野・小浜・大平・頭地・下谷・野々脇)の半数もの世帯の人びとが村外へと去ってしまう。規模の小さかった三つの集落(小浜・金川・逆瀬川)は消滅という事態を迎えていた。この状況をみて建設反対の主張を継続できなくなった反対派も、間もなく補償案を受け入れ、反対の看板を下ろすことになる。この状況に歯止めをかけない問題がもうひとつあった。ダムができないかもしれない、という状況に現実味をもたらしていた村落外部で展開され始めたダム反対運動である。水没予定地での反対運動から時を隔てること 20 年であった。下流でダムの治水機能の恩恵をうけるはずの人たちが川への環境負荷を理由に反対を表明し、ダムの利水機能にあやかるはずの農家たちが農業用水の不要を訴えていた。

 しかしいつまでもダムができるかわからないという状況は、五木村の人たちを数十年にわた って苦しめてきた。というのも五木の水没予定地の人びとは、誰が村を離れて、誰がもとの集落上手に造成される移転先に残るのかを30 数年を経てなお確定することができずにいたからである。ダムがもしかしたらできないかもしれないという錯綜した状況にあれば、とりわけそれまでの生活に愛着のある人たちは慣れ親しんだ水没予定地を早々と去ろうとは思わない。しかしその間にも時間は流れていく。五木に残ると決めていた人が、歳を重ねて身体を弱らせ、やっぱり都会に住むと言いだすかもしれない。計画発表から約 30 年後の三団体による「早期着工」表明は、集落が集落でないような状況に終止符を打とうとする実践でもあったのである。

 水没予定地の人たちは、ダムの是非をめぐる運動や補償交渉を展開しながら、集落がこれまでつづいてきた意味にどれほどの思いを巡らせてきたことだろうか。村に残ることを決めた人にも、残ることが叶わなかった人にもそれは同様であろう。意外にもかつて三団体の境界が水没予定地の集落に深い溝をもたらしていたとき、それぞれの集落では一度も年中行事や常会を欠かすことはなかった。村を去る人は必ず焼酎を手に常会で挨拶をしたという。行く末の見えない、なくなってしまうかもしれない集落で実践されつづけたこのような行事は、集落が人びとに果たしてきたことを今までになく強く伝えたことだろう。なぜ人は集落をつくって生きようとするのかを問い訪ねる旅は、五木村から始まり、今も相変わらずつづいている。(植田今日子)

※ このページは、2014年3月刊行の『人間情報学研究 第19巻』に掲載された記事を元にしております。その後、略歴や所属等に変更がある場合がございます。


|19巻に戻る