研究員紹介
門間 俊明(教養学部言語文化学科)
ヴィルヘルム・ラーベの先進性



 19 世紀後半のドイツの小説家、ヴィルヘルム・ラーベ(Wilhelm Raabe,1831~1910)の作品を研究しています。文学史の用語を用いれば、「詩的リアリズム」あるいは「市民的リアリズム」と呼ばれるエポックに属し、同時代の作家には、アーダルベルト・シュティフター(オーストリア)、ゴットフリート・ケラー(スイス)、テオドア・シュトルム、テオドア・フォンターネなどがいます。

 この時期は、ドイツの文学史の中で、今風な言い方をすれば「谷間の世代」ということになります。ゲーテ、シラーの輝き、ノヴァーリスやティークのロマン主義の熱気はとうに過ぎ去り、一方で、マン、ヘッセ、リルケ、カフカといった 20 世紀初頭の「スター」達が登場するまでには、しばしの時を待たねばなりません。また、周知のように(といっても、そんな事は全く知らんと言われるかもしれませんが)同時代のヨーロッパを見渡せば、とりわけ英、仏、露においては、「世界文学」の名にふさわしい偉大な小説家の名前が屹立しています。それらの「ビッグ・ネーム」に比べて、上述の作家たちの名前が確かに控えめである事は否めません。


門間先生の写真
(もんま としあき)
1977年 宮城県立石巻高校卒
1981年 上智大学文学部ドイツ文学科卒
1987年 上智大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学
1987年 東北学院大学助手
1988年 東北学院大学専任講師

 しかし、だからといって、彼らの作品に魅力がないという事ではありません。市井の慎ましい生活の中で、愛し、苦悩し、運命に翻弄される人物を描いた彼らの物語は、その地域性も相まって、むしろ読む者の素朴な共感を呼び覚まします。ケラーやシュトルムの珠玉の作品が、かつて日本の若者に大いに愛好された事は周知の事実です。

 さて、ラーベです。ラーベももちろん、そうした作家たちのうちの一人で、ほぼ 80 年の人生で、長短 68 編の小説を残しました。極めて多作な作家と言えますので、その作風をひと言で言い表すのは困難です。誰かの悲劇であれ、珍奇な運命であれ、あるいは幸福な物語であれ、作品の背後には、独特のフモールと、ある種の諦念と、ペシミスティックな無常観とでも言うべきものが流れています。作品はいわゆる1人称の語り手による回想のかたちをとる事が多いのですが、そこには常に語り手のペダンチックな引用と饒舌と逸脱が混在しており、一義的なストーリーの展開をむしろ阻害しているとさえ言えます。同時代の作家たちに比べて、日本語に翻訳された作品が少ないのも、その辺に理由がありそうです。

 作家が居住した場所にちなんで、創作期は初期のベルリン・ヴォルフェンビュッテル時代、中期のシュトゥットガルト時代、そして晩年のブラウンシュヴァイク時代との3つに分類されます。初期の作品群が、紋切り型の人物造形と安易なセンチメンタリズム故にbanal と評される一方で、中、後期の作品にこそこの作家の真価が発揮されているとみる見方が一般的です。

 さて、私自身の関心も、主にラーベの後期の作品群にあります。20 世紀の初めになりますと、誰かの運命を素朴な語り口で物語るというだけという小説のかたちは影を潜め、例えば小説の中に膨大な思想を盛り込んだり、不条理そのものが物語られたり、何も出来事が起きないかわりにひたすら主人公の意識の流れや省察が記述されたり、物語の時間軸が意図的に混乱されたりといった試みが積極的になされるようになります。こうしたいわば実験的ともいえる小説の形態の萌芽が、ラーベの後期の作品に現れているのではないか、という問題意識です。

 例えば、晩年の作品に、ブラウンシュヴァイク3部作とよばれるものがあります。『古巣』(Alte Nester,1879)、ラーベ自らが「最高傑作」呼んでいる『シュトップクーへン』(Stopfkuchen、1891)、『フォーゲルザンクの記録』(Die Akten des Vogelsangs,1896)の3作品です。これらに共通する特徴は、すべて語り手の回想に過去の物語が浮かび上がるかたちを取っていますが、その仕組みは精緻にして巧妙です。とりわけ『シュトップクーへン』では、「物語る時間」と「物語られる時間」という単純な2重構造ではなく、さらに二つの時間が「物語られる時間」に入れ子構造をなし、最終的に読者が作品を読む際の時間で、これら4つの時間が統合されるという構成になっています。したがって読者は、今自分がどの時間平面にいるのかを常に意識するという、絶えざる緊張状態におかれる事になります。さらに言えば、物語られる内容はかつてドイツの田舎町で起きた殺人事件の真相なのですが、それらはなかなか語られません。上述の読者からみた切れ切れの時間構造の故でもありますし、その都度の語り手たちの逸脱と饒舌の故でもあります。つまり何かを語ろうとして企図された小説であるにも関わらず、小説自体は語りたがっていないように見える(もちろん現代のミステリー小説などにはありがちな手口ではあります)、という、なかなかモダンな成り立ちが見とれるのです。

 19 世紀の後半、古色蒼然とした装いの中に見え隠れする小説技法の先進性、それがラーベにとって、どのような内的な要求に由来するのか?かっこ良く言えばそんな問題意識なのですが、そんなものが簡単に理解できるはずもありません。日暮れて道なお遠しですが、とりあえずは、作家の作品全体に通底する問題意識の咀嚼に、地道に努めていこうと思います。


※ このページは、2014年3月刊行の『人間情報学研究 第19巻』に掲載された記事を元にしております。その後、略歴や所属等に変更がある場合がございます。


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