研究員紹介
佐々木 俊三(教養学部地域構想学科)
チロと欲望、家族と性的差異



 息子を育てた経験はあるが、娘を育てた経験はなく、そのことを妻に話すと、愛娘チロをあてがわれた。バーニーズ・マウンテンという犬種の子犬、いな娘である。犬屋から貰ってきて「さあ、ここがお前の家だよ」と言い、檻の生活から解放し、庭に放した。飛んで走り回ると思いきや、ぶるぶる震えてその場に立ち(=座り)つくすのみ。人間的な言い方に翻訳してみれば、茫然自失、今後の自分の運命を計りかねて、不安におののいていたということであろう。その後、肌身離さず子犬を抱え続け、母親役を演じた。書物を読むときも椅子の後ろに座らせ、休めば前に抱いたりし、寝るときも腹の上、出来る限り不安を一掃しようと努力した。その結果、見事、親に依存する愛娘へと成長した。今では、何を勘違いしたのか、私に触れ合うことを異常に嬉しがり、甘えたり、お尻を私の足元や身体に押し付けたりする。つまり肌と肌(=毛)の触れ合いの要求である。


佐々木先生の写真
(ささき しゅんぞう)
1979年 東北大学大学院文学研究科満期退学
1983年 東北学院大学教養部講師
1994年 東北学院大学教養学部教授

 犬のこういう直接的な接触要求に触れてみると、人間における肌と肌の接触要求について考えさせられる。人間の性は動物性から逸脱し、狂気の可能性にまで達する。通例、人間と動物の性様式の差異が強調されるが、両者に通底した基層はそれでもどこかにある。その基層がどこで蓄積され沈殿されるかと言えば、それは「哺乳」によると言えよう。哺乳という生物学上の生存条件こそ、肌と肌の接触要求に連接するものであり、言い換えれば性的存在の基盤となる。この基盤は「食べること」という生物学的条件そのものだと言ってもよいが、しかしそうは言 っても、「食べること」と「性」はぴったり重なり合うものではない。肌と肌の接触要求は「食べること」に依存し付随してはいるが、しかし「食べること」に還元されない。「食べること」を凌駕し、そこから逸脱し、溢れ出ていく剰余がある。「食べること」と「性」の微妙なずれと差異、その種々なあり方のうちに、哺乳動物が「群れ」をなし「集団」を形成し、「位階秩序」を成就する基盤がある。

 「食べること」は必然的に「闘争」の問題を随伴させる。だが、「生きる」ために「死を賭する」この矛盾した生存は、「同類」の発見という事態を前提している。闘争から友愛に至る広い展開を可能にするこの「同類」の発見は、言うまでもなく依存の軸である母的対象を中心として巡り、これを前提にする。とすれば、「食べること」と「性」の重なりずれるこの関係において、すでに母的対象と同類と私というこの三者が「群れ」の基礎的単位を構成し、人間の条件に特異な相貌を与えるものであることが理解されよう。この特異な相貌に、ヘーゲルもフロイトも「欲望」という名前を与えた。単なる生理的条件としての「欲求」と異なり、依存の対象を介して物に到達する「要求」とも異なるこの「欲望」は、逆に物を介して対象(=人間)に到達しようとするものである。だが、個体である限り、対象には絶対に到達し得ない。この不可能性ゆえに、「欲望」は際限なき欲望という形へ繰り延べ再生産される。ヘーゲルはこの際限なき欲望のとりうる妥協形を、「私である私たち、私たちである私」と呼んだ。すなわち「精神」である。バタイユ的に言い換えれば、「連続と非連続の連続性」とでも言い得ようか。

 ヘーゲルは「精神」の原初的形態を Sittlichkeit と呼んだ。これをひとことで言えば、すなわち「家族」である。「家族」こそ「私」を形成した母胎であるが、「私」が反省の対象として「家族」に至るのは、つねにすでに喪われた対象としてでしかなく、それゆえに「家族」とはつねに過去性を引きずっている。喪失としての家族、すなわち「喪」としての家族こそ、「精神」を構成する重要な基盤なのだと言えよう。

 「精神」が「精霊」に繋がり、「精霊」が「亡霊」に繋がるように、「精神」の問題は見えない絆、過去性としての祖先に繋がっている。「家族」はつねに喪の問題に突き当たる。この「家族」を代表する中心的形象は「母的対象」である。なぜなら、「家族」は炉床と切り離しえず、炉床はまた暖と火に他ならず、これを宰領するものは「母的対象」だからである。母的対象が最初に人間に「食べる」営みを与えるからばかりではない。その営みは「抱くこと」、皮膚と皮膚を接触させ、子に暖かみを与えることを意味しているからだ。従来ヘーゲルの Sittlichkeit は、英訳で the ethical life と訳されてきた。だが、この訳も、日本語の「人倫」も、誤訳とは言えないが、人に誤解を与える意味で誤訳に近いとも言える。最近、新しい英訳として the way things were done という訳が出た。これは、ヘーゲルの原意をかなり掬いとっている。

 ヘーゲルは、 Sittlichkeit を代表する形象として、ギリシャ悲劇の『アンティゴーヌ』を参照する。だが、アンティゴーヌとはまた、ヘ ーゲルにとって、「女性という性」の記載対象でもあった。「家族」は子を養育する。養育が訓育や教育に必然的に繋がるものであれば、「家族」は子を養育することによって、子を一人の市民として自立化する。「家族」とは移行の場、たえず「通り過ぎて行く」場、「私」の領域から「公」の領域への移行の場なのである。とすればヘーゲルにとって「精神」の問題は、「家族」と「市民社会」の差異と移行が記載されるという意味で、「性的差異」が記載される場所ともなる。過去性として「家族」が必然的に消滅していくさまは「教育」と「訓育」において明瞭なものとなるが、同時にそれは、「私的領域」から「公的領域」への移行、すなわち家族が市民社会との差異を生き抜いていく場所ともなることを意味する。

 ハイデッガーは『存在と時間』の中で「性的差異」の問題を刻印していない。そのことをデリダは“Geschlecht”の中で精細に分析している。西洋語において「男」が「男」という部分対象であるばかりか「人間」という全体でもあり、これに対して「女」が「女」という部分対象でしかないという非対称は、種々な形で西洋の哲学形象の中に痕跡を残している。

 この問題に端緒を開いたのは、言うまでもなくフロイトの精神分析である。「性」ということが問題であるのみならず、「女性」という性が解き明かすことのできない謎であることを発見したのはフロイトその人である。フロイトは「女性」が認識の限界でもあったことを正直に告白している。もちろんフロイトその人はフェミニズムによって告発された。けれども、フロイトが開けた蓋が西洋にとって思考されぬままに封印されてきた蓋であったことを誰も否定できない。

 神がなぜ父という形象で同定されるのか、イブがなぜアダムの「肉の肉」と言われねばならないのか、天使がなぜ「受胎告知」の使徒として描かれ中性的形象で表現されるのか。西洋を貫いている性的形象にはつねにある特異な布置が存在する。この布置に従って哲学の形態も独特な性的差異の問題を記載してきた。ヘーゲルの「アンティゴーヌ」もまたその独特さの中にある。芸術の終焉という悪名高き命題も、この「アンティゴーヌ」解釈に依存している。

 ヘーゲルが哲学の中に、「移行」という形で記載した「性的差異」の問題。この問題を、デリダは "Glas" の中で、哲学と精神分析の関係の問題として掘り下げ、哲学の限界を行きつ戻りつする。“Glas”が解き明かした問題に、いまだ私たちは正面から対峙しその射程距離を測定したとはいえない。哲学から始まりもっと実証科学の側に向かった文化人類学の領域で「家族」の問題に迫ったのはレヴィ=ストロースであった。「家族」を構成しているものは、他方で「インセスト・タブー」だが、これは理論にとって躓きの石であり、理論を逸脱している。彼はこの難問をモースの『贈与論』に示唆を受けつつ、贈与と交換、「社会的交通」の問題へと吸収していった。彼のその後が明らかに示している通り、彼にとって「性的差異」の問題は「交換」の問題に他ならない。

 だが「性的差異」は決して「交換」の問題にはならず、「社会的交通」へと還元されることはできない。還元してしまうことのできない「差異」の問題、特異さと構造的亀裂が存在する。「驚くべきいぶかしさ」の領域に差異の問題はある。性的差異と哲学(理論)の問題、性的差異と精神分析の関係は、では、どのような思考の無意識の問題をあらわにしていくのか。いつまでも明らかにはならず、暈取ることのできないこれらの問題の周辺を、私は埒もなく右往左往している。きっと自分が読解しようとしているテクストには、それなりの脈絡が後から明らかになっていくのかもしれない。だが、今はまだ手探りの暗中模索をくりかえしているにすぎない。


 とまあ、かなり説明の要する難しいことを、私の研究対象として飛躍した形で語りはした。だが、ひとことで易しく言い換えてみれば、目の前の愛娘チロが私に要求していることは、どこまで欲望に転換されるのか、あるいはしないのか、これを知ることだと言ってよいかも知れない。チロは私の家族なのか、いな、家族ではないのか。いな、そんな難しいことでもない、チロが私の目を見据えつつ尾を振り振りしているその姿に、私もまたまなじりをさげているという、ただそれだけのことに過ぎないのである。


※ このページは、2012年3月刊行の『人間情報学研究 第17巻』に掲載された記事を元にしております。その後、略歴や所属等に変更がある場合がございます。


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