研究員紹介
佐伯 啓(教養学部言語文化学科)
私のライフワーク



 私がライフワークとしている仕事は、ゲオルク・ビュヒマン(Georg Büchmann 1822-1884)が編纂した、『翼のある言葉』(„Geflügelte Worte“)というドイツ引用句辞典の編集史研究である。1864 年に初版が刊行されたこの本は、「ドイツ国民の引用の宝庫」という副タイトルが示すとおり、歴史的人物のよく知られた言葉、舞台から広まったセリフ、あるいは文学作品の有名な一節等、いわゆる「人口に膾炙した」言葉を集録した引用句辞典である。ただ辞典とはいっても、見出し語がアルファベット順に並べられたような書物ではなく、ギリシャ・ラテンのテクスト、旧新約聖書、ドイツ文学、さらにはシェークスピアをはじめとする外国文学に至るまで、様々な引用句とその典拠の解説が詳しくなされた、読んでいて楽しい辞典である。気の利いた引用句を会話の中にどのくらい織り込めるか、また引用されたフレーズをどのぐらい知っているかがその人間の教養を示す重要なメルクマールであった 19 世紀教養市民層のあいだで、この書物が彼らの知的スノビズムをどれほど刺激したかは想像に難くない。ほんの 220ページほどのこの小さな書は、刊行後すぐに大きな人気を博し、ほぼ毎年のペースで版を重ねるほどの売れ行きを示した。1884 年のビュヒマン没後、その編集作業は後の編集者に引き継がれ、ドイツで„der Büchmann“といえばこの書を指すほどの知名度を今でも有している。


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(さえき けい)
1986~88年 ドイツ・テュービンゲン大学留学
1989年 立教大学文学部大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。同年本学専任講師
2001~02年 ドイツ・トリア大学客員研究員
2007年より本学教養学部教授

 この書物のタイトルから広まった„Geflügelte Worte“(翼のある言葉)という概念は、慣用語法論(Phraseologie)の分野ではすでにひとつの専門的範疇であるが、この語の定義についてはまだ曖昧な部分も多く、ことわざ、箴言、アフォリズム等と混同されることも少なくない(この問題については、人間情報学研究第10巻でも論じた)。私の研究の目的は、この書物の改訂プロセスを文献学的に辿ることで、編集史的視点からこの書物の独自性を明らかにすることである。そしてその作業を通して、„Geflügelte Worte“という概念の学術的定義をより明確にしたいと考えている。

 2001 年 4 月から 2002 年 3 月までの1年間、在外研究員としてドイツのトリア大学に滞在した際には、この書物の初期の版の収集と、この本に関する当時の書評文献の発見に時間を割いた。だが実際にドイツで研究調査を行なってみてわかったのは、第一次文献を手に入れることの困難さであった。当初は1年あれば十分な資料収集が行えると思っていたのだが、一次資料となるビュヒマンのテキストを体系立てて揃えている図書館はひとつもなく、所蔵していても戦後の比較的新しい版がほとんどで、19世紀に出版された初期の版を見つけること自体が一苦労であった。そのため一次資料となる初期の版については、徐々に整備されつつあったドイツ古書組合のネットカタログを丹念に探しながら、少しずつオリジナルの原本を買い集めていった。

 こうしてようやく手に入れた初期の版を実際に目にしてわかったことは、著者であるビュヒマンが行なった改訂作業の緻密さであった。前書き、序文、本文、人名索引、引用句索引等のそれぞれについて複数の版を並べて細かく比較してみると、版を重ねるごとに著者がかなりの書き直しや付加、削除を行なっていることがよくわかった。

 とくに重要と思われたのは、初期の版の冒頭に著者が添えた前書きである。ここには、„Geflügelte Worte“というこの書のタイトルの由来が述べられているだけでなく、この表現が「ことわざ」とは異なる1つの新しい概念とな っていくプロセスが、ビュヒマン自身の証言によって示されている。初版と第二版の前書きとの間の大きな異同に気づいたときは、たいへんな発見をした思いだった。文献学的アプローチの面白さは、こういうところにあるのだと思う。

 ビュヒマンの校訂作業の方法を分析する上でもう1つ重要な資料となるのは、当時の文学雑誌や新聞に掲載されたこの書物についての書評と、ビュヒマンの書簡である。1879年に書かれたビュヒマン自身の証言によると、この本を取り上げた書評は、その年の時点で237 存在したようである。それらの中身がどのようなものだったかを知るために、私はドイツ国内の図書館を巡って、当時発刊されていた新聞や文学雑誌の書評記事を端から調査していった。事項索引がない雑誌に載った書評を調べるのは特に困難な作業で、端からページをめくっていった記憶がある。これには多くの時間を費やしたが、それらの資料のおかげで、書評で指摘された事柄をビュヒマンが次の版の改訂でどのように取り入れているかが実証的に検証できるのである。

 また、引用句の精確な出典について調べる際に、ビュヒマンが友人や研究者に宛てて書いた手紙が、Marbach を始め各地の図書館に一部保存されていることがわかり、それらの図書館を訪ねたり手紙で複写を依頼したりして、かなりの数の資料を手に入れることができた。1年にわたるこうしたドイツでの研究成果は、帰国時の段階で、一次資料となるオリジナルの版を約35冊、ビュヒマンのこの本についての書評を約40、そしてビュヒマン自身の手紙を約50通見つけられたことであった。

 帰国後もそれらの資料収集は継続して行ない、現時点(2012年)では、„Geflügelte Worte“の初版(1864年)から最新版(43版、2007年)まで、内容に異同のない 2つの版を除きすべて集めることができた。また、重要な二次資料である書評と手紙についても、その後入手したものが10ほど加わっている。

 上記の文献資料を使っていくつか予備考察的な論文を書いてきたが、一次資料についてはすべて揃い、二次資料の収集はどこかでやめないときりがないので、文献の収集作業は一区切りつけて、そろそろ包括的な研究論文にまとめたいと考えている。私がふだんの講義でレトリックや言語表現を扱うことが多いのも、元々はこの引用句研究との関連によるものである。


※ このページは、2012年3月刊行の『人間情報学研究 第17巻』に掲載された記事を元にしております。その後、略歴や所属等に変更がある場合がございます。


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