研究員紹介
金菱 清(教養学部地域構想学科)
ネクタイをしめた○○



 昔「パンツをはいたサル」という本が話題を呼んだ。どうやら大学では教員は学生と区別するために相応の格好をしないといけないらしい。普段私服でラフな格好をしている私に聞こえてくる「噂」は、もう少し教員らしく身をまといなさいということである。確かに度々学生に間違われる。赴任した当初も清掃のおばさんに、
「偉いわ、土曜まで学校に来て勉強するなんて」
「あのー、教員なのですが…」
「あら、すみません、てっきり学生かと思って」
と、深々と頭を下げ平謝りされた。このような手のひらを返すような反応に逆に驚かされる。事務の方にも時折権高い態度をとられることがあるが、先生とわかるやいなや態度が変わり、丁寧に対応されることがまれにある。私という人物は変わらないのに、それを先生として認識するか、学生として認識するかでその人に対する接し方は 180 度変わる。彼らが謝る理由は、学生として間違ったからではなく、先生に対して学生のような扱いをしたことに対する気恥ずかしさからであろう。日頃こういう態度で学生に接しているんだとわかる。この実感は、スーツやネクタイに身をまとい特異な位置にいればなかなかわかりにくいものである。

 私の立ち位置は常にマージナルな境界人でありたいと考えている。この場合教員でもあり学生でもあるような中間地点ということになろうか。このような態度(構え方)は実は私が専門とする社会学という学問的態度に起因するように思える。大学・大学院と9年間「社会学」畑として育ってきたが、私の社会学的な感性はそれより古い。私は5歳の頃から社会学をやっていると自任している。お風呂の中で、みんなが僕のためにそれぞれ役割をもって演技してくれていると考えたことがある。私が死んでお葬式が終わった後に、みんな「金菱のために演技疲れたなあ」という感じで、演技をやめるのではないかと思った(本人は死んでいるので検証できない)。社会学者のゴフマンは人間社会を演技として捉えたので、私の考えに似ている。

金菱先生の写真
(かねびし きよし)
1975年 この世に生を受ける
1999年 関西学院大学社会学部卒業
2004年 関西学院大学大学院単位修得・退学
2005年 関西学院大学大学院博士号取得
2005年 東北学院大学教養学部講師
2007年 東北学院大学教養学部准教授
 社会学は、演技に自覚的だという意味で、職業的にいえば、マジシャンや詐欺師に近い。たとえば、マジシャンは見ている人たちが「これが常識だ」と思っているのとはまったく違う切り口で世界を見せ、見ているものを驚かせる。ただし、マジシャンの立ち位置は、観客である見る側だけの視点でも、それとは違う視点、このどちらか一方だけでは成立しない。つまり、ある種の二重の世界(マージナルな境界)に生きているというのが大きな特徴である。

 手塚治虫の漫画にある「ブラック・ジャック」本名、挟間黒男はその名のとおり、医学と一般社会どちらも属さない、その“はざま”で生きる無免許医である。一流の腕をもっているが無免許であるがゆえに、ダークな仕事を引き受けていく。そのなかにあって社会正義が貫かれている。社会学者もまたブラック・ジャックのようにマージナルな位置に自ら立つことではじめて世界のダイナミズムや社会の自明性を捉えることができる。マルクス、ジンメル、デュルケムやそれに続くラザースフェルド、シュッツなど錚々たる社会学者がユダヤ人だったことは、この「マージナル」というものに関連する。

 私が長年フィールドにしてきた大阪空港の敷地にある日本最大規模の「不法占拠」地域の研究は、このマージナル性から世の中や社会を考えることである。不法は、合法なものでも違法なものでもない、グレーゾーンにあたる。そこに住んでいる人たちは日本であれば在日コリアンである。在日に常に突きつけられた問いは、「朝鮮人であれば朝鮮に帰れ」か「日本人であれば日本に帰化しろ」というワン・ネーション・モデルである。国籍がないがゆえに日本のあらゆる法の庇護のもと艱難辛苦の生活を「不法」な形で現出せざるをえなかったのである。

 「行政の谷間です。市が下水道100パーセント達成したと連絡受けました。だから○○地区は市民が住んでるけども、私たちは市民じゃないんですかという疑問符つけて送り返した。」


 このように住民が語る「不法占拠」はまさしく行政上、法律上のはざまである。がしかし、はざまであるがゆえに人々の生活の工夫が最も生きる場所でもある。生活の必要性から汚物処理や舗装化が認められていく。次は子どものための道路標識、反射鏡、その次は上水道や電話の設置、車庫証明の発行、公園と個別の要求が、次の要求の呼び水となる。すなわち、「不法占拠」かどうかという法律にもとづく水準とは別に、生活実践に根ざした人びとの自前の正当性を根拠に、市とコミュニケ−ションがはかられる。住民の政治的主体性と呼応するかたちで生活に基盤をおく公共空間が不法占拠(はざま)にたちあがることになる。

 社会学の多くの場合行為論から社会をみるが、そのレベルではデータ的に浅い。私は経験論というアプローチをとっているが、家族を例に挙げた場合、拡大家族から核家族化が進んだと一般的にいわれる。これは勿論データ的には押さえられる。だが子どもが多い時には核家族化が進むのは当然で、父親は一人で子どもは5人だとすると、親は長男と一緒に住むことができる。ところが、親は5人もいないので、後の4人の家族形態は必然的に「核家族」となる(行為論)。しかし、この長男に何かあった場合、二男所帯に親が来ることも否定できない。これを相互転換という。核家族でありながらも、「潜在的な大家族」になるという可能性をもつ(経験論)。

 相互転換の核心は、代表性と一般性にばかり関心が払われていた量の多少(多数であるために一般、少数であるために特殊)に対し、現実に存在する個別性と特殊性を科学がいかにすくいあげるかという質の深浅の問題と深く関わる。歴史を決定論的ではなく、様々な選択肢の結果と措けば、例外的な事象であっても、社会に対する潜勢態のダイナミズムをあきらかにすることができる。

 ネクタイをしめないことから「不法占拠」の研究までのマージナルな態度は、私という存在の表現方法(演技)なのかもしれない。

著書
「生きられた法の社会学―伊丹空港「不法占拠」はなぜ補償されたのか」(2008 新曜社)


※ このページは、2008年3月刊行の『人間情報学研究 第13巻』に掲載された記事を元にしております。その後、略歴や所属等に変更がある場合がございます。


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