研究員紹介
塚本 龍男
(教養学部情報科学科)
わたしをめぐるよしなしごと



  自己紹介なんかしたくない、自己を紹介するとなれば、生い立ちを時代とともに語ることになる。何を書いても後で悔やむことになる。自己紹介のパラドクスとでも呼ぶことにして、その点はあきらめよう。

 子供の頃、湯川(秀樹)さんのノーベル賞で世の中が大騒ぎだった。なんだか知らないが理論物理は戦争に負けた貧乏な国でもできるもので、しかも大変エライのだと思い込んだ。小学校の5年生ぐらいで京都に行って物理をやる、と決めてしまった。未だに物理とは何か私にはわかっているとはいえない。すべてそんな具合だ。中学生の時、友人と集まって数学の勉強をしようと、どういう事情か覚えていないがクセジュ文庫でマルセル・ボルという人の本を見つけてきて読書会みたいなことをした。何もおぼえていない。何も分からなかったとおもう。分からないまま頑張って終わりまで読んだのだ。無駄といえば無駄だが、内田樹氏のいう「知的肺活量」を鍛える足しにはなったのではないか。

高校では雑誌を出す「三丘評論編集部」というクラブに入って矢鱈に文章を書いた。一冊の半分ほどを編集部の私が書いて、ばれないようにいろんなペンネームを使った。その時の顧問は数学の桜井郁子さんで、後にロシア演劇の方が専門になった人だ。この桜井さんは『我が愛のロシア演劇』という本を2年前に出版している。

塚本先生の写真
(つかもと たつお)
1958年 大阪府立三国ヶ丘高校卒業
1967年 京都大学大学院単位取得退学
1967年 東北大学理学部
1987年 東北大学大型計算機センター
1990年 東北学院大学教養学部

 そういう生徒だったから、受験の年、担任のウマさん(あだ名)に、階段で出会い頭に、「大学はどこを受けるんや?」と訊かれて、既定の事実のように「京大の理学部です」と答えて、「え?文学部やないのか?」と訊き返されたのも無理ないと思う。週5日制で、のんびりして楽しい高校時代だった。
 大学では宮田武彦という高校時代にブールバッキを読んでいたのに出会った。せいぜい寺澤寛一程度の我々とは桁違いで舌を巻いた。

 代表的な研究といえば、原子核理論をあげなければならないのだろうが、専門的だし、何より面白くない。むしろ、専門からはみ出して書いたものの方が自分では面白い。武田暁先生の還暦記念の論文集"Rational of Beings" に松崎・川添両君と共著で寄稿した"Number of Possible Algorithms"が自分では面白いと思っている。与えられた数の「葉」をもつ可能な二分木の数を求める(本来はアルゴリズムに関する)問題から派生して英語のような語順に意味がある言語で無限に長い文の木構造を同定できるためには8種以上品詞が必要であることを示した。二分木の数を与えるクローズドフォームの公式を苦労して求めたのだが、後であのラマヌジャンが大昔に計算していたと分かった。残念だけれど、相手がラマヌジャンでは仕方ない。結局noveltyとして残ったのは品詞の数の部分だけだ。

東北学院の100周年の論集で時間の矢と1/fノイズをテーマに短文を書いた。時間の矢の方向は生物の育つ方向によって決まるという、「人間(生物)原理」的な矢の方向の定義をしてみたが、こういう議論は自足の円環を閉じるので、ある意味で問題が死んでしまう。1/fは南部陽一郎先生がファインマンから聞いた話として、講演の後の雑談で話題にされたのを形式的に解決したものと思っている。「定電圧電源をつくろうと努力する(例えばできるだけ多くの電池を並列にする)と1/fのノイズが発生するのは何故か?」という問だ。所与の条件は「時間のスケールがなく、かつ電圧のスケールが固定されている」と言い換えられるから、電位については固定されたスケールを設定し、時間方向のスケールの不在を当時流行りの自己縮小同型で表わせばごく簡単に1/fノイズが証明できた。単純明快かつ論理的な帰結だがこの話だけでは生成のダイナミクスは示せない。

もう1つは、教養課程でオムニバスの講義を高橋光一さんがコオディネータで「安全」をテーマにして開講した。その時のノートを論集に載せた。コンピュータネットワークシステムに関する安全を考察したのだが、要約すれば「ディジタルな開放システムの安全性は必ず致命的な弱点を持つ」、したがって「攻撃するための強い動機があればネットワークシステムは安全ではありえない」、したがって「私有制を前提とするマネー資本主義のもとで、巨額のマネーをネットに置くことは危険である」という結論しか導けないことがわかった。巨大なマネーはインターネットから、何時か撤退すると今も確信している。「安全」がsecurityを意味するかぎりこの確信はくずれない。イヴァン・イリッチがいうシャロームが実現すれば、インターネットも本来のonvivialな道具に戻る筈だ。

 「安全(セキュリティ)」について考えると、「バベルの塔」に思い至る。神はあの塔の建造を止めるために、「共通の言葉」を破壊した。いま世界を<帝国>化し、さらに帝国以後化しつつある共通語は神への挑戦ではないのか?共通の言葉とは科学技術?それともマネー?あるいはネット上の英語?必要なのは、イリッチのvernacularなことばの復活だ。

教育を第一に考える立場にいる(と思っている)。忘れないように心がけているJohn Holtの一冊の本がある。40年程昔、ベストセラーになった"How Children Fail"だ。授業に於いて、表層ではなく意味を伝達することの困難と真剣に取り組んだ初等教育の当事者の「本気さ」というようなものが直截伝わってきた。いわゆるできる生徒の中に、問題の意味を理解しないで設問に対する「正解」ができる条件反射が形成されている場合が多く見られることを指摘している。学者馬のような生徒を育てかねない「授業」を防ぐコミュニケーション技術を教員は要求される(ということだ)。

最近の本:中沢新一氏のカイエ・ソヴァージュは面白かった。E. Toddは「知的肺活量」を要求し、中西準子『環境リスク学』は「読み方注意」だと思う。ここで紙数が尽きた。


※ このページは、2006年3月刊行の『人間情報学研究 第11巻』に掲載された記事を元にしております。その後、略歴や所属等に変更がある場合がございます。


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