所員インタビュー
大山 正博 教授
『こころの科学』と『ものの科学』



インタビュワー・構成 相川利樹



 最近の宇宙論の流れを観ると宇宙に存在する全てのものが統一したメカニズムで作られていたのではないかという実感を持ちます。まさに、宇宙は本来の意味で「コスモス」であるのだということでしょう。古代ギリシャの人々が措いていた「コスモス」が新たに復活したわけです。
同時にわれわれの時代は「こころの科学」と「ものの科学」の接近してきている時代でもあります。これも古代の人たちが描いた「マクロコスモス」と「ミクロコスモス」の融合の始まりでしょうか。

 そこで、今回は、心理学の中でもより人間のこころの問遭に迫る研究をされている大山正博先生に登場願って「こころの科学」を語っていただくことにしました。聞き手は前回からこの企画を引さ継いだもっぱら「ものの科学」を通じて宇宙をみているのですが。


■人格心理学研究

Q:いつもインタビューのはじめにお開きしていることですが、大山先生が長い間研究なされてきた人格心理学ですが、それを研究している上で醍醐味とは何だろうかということをお聞きしたいのですが。

大山:そうですね、醍醐味といえるかどうかわからないのですけれども、いろいろな人と出会って、問題をもっている人、あるいはとても健康に見える人、私自身の枠を遥かに超えた人間に村する見方とか、心理学自体に村する見方とか、そういうものを際限なく学ぶことが出来るということでしょうか。他人を知るという面と自分自身にとって役に立つという面とありますね。自分について役に立つ面ばかりが際立つと問題があると思うのですが。」

大山先生の写真
おおやま まさひろ)
1931(昭和6)年生
1902年 東北大学文学部哲学科(心理学専攻)卒業
1965年 東北大学大学院文学研究科(心理学専攻)博士課程修了
1965年 東北大学文学部助手
1968年 宮城学院女子大学助教授
1974年 東北大学医療技術短期大学部助教授、81年教授
1988年 東北学院大学教養学部教授
Q:どういう意味で問題があるのですか。

大山:人間は自分の弱点なり、問題点を補強したり、自分自身を合理化するために、あるいは自分自身の問題を解決するために他人を利用することがある、と思うのです。

Q:研究者も生身の人間という意味でですか。

大山:そうですね。だから自分の痛いところに触れるものについては、かなり主観的な解釈をしてしまったり、そういうことがあり得るのではないかと、人間がどこまでいろいろなことを客観的に見ることが出来るのかということは、大きな問題だと思うのですけれどもね。物質に対する場合でもそうですね。

Q:そうですね。最近のバラダイム論なんかでも自然科学をやっていく上でも、研究者の間で、共通に前もって仮定されているものから出発しないと学問が成り立たないのではないかといわれているのですね。このことは物質の科学でもですね、生の自然を何の前提もなしで相手に学問しているわけではないのだ、というのが大体の共通の理解になっているというわけです。
そういう意味からいうと、われわれはどういう立場でこの自然に接するかということが、まさに物質の科学でも問題になっているというのが最近のバラダイム論の話なのですが。

大山:そうですね。例えば環境問題一つをとってもそうですね。具体的には公害問題ですね。環境や公害をどう見るか。それからわれわれとの関わりで環境をどう見るか。やはり、人によって違いがあると思うのですね。比較的恒常的な物質に村する場合でもそうですからね。
だから、人間の場合には、さらにその違いが出てくるのではないかと思うのです。議論の出発点の人間観やそれにともなう人間的な事象の見方そのものに違いがあると思うのですがね。

Q:なるほど、それが特に気がかりになるのですね。人のこころと物質との関係をどのようにみるかと言ったことも大きな問題になりそうですね。僕なんかの考えだと、最終的に物質レベルで人間も理解できるのかなと思っているのですけれども。

大山:最初から、なかなか難しい問題になりましたね。私の場合はね、どちらかといえば、人間を物質的な側面を含めてとらえている、といってもいいでしょうね。

Q:それは経歴から実験心理学的なこともわかっているからそういう要素が多いのですね。

大山:実験心理学から出発したというばかりではなく、どの領域の心理学を勉強するにしても、以前は大体、生理学、生物学、精神医学が基礎科目として必修になっていたのですよ。現代心理学は、かなりの程度、物質的側面、いい換えると生物学的側面を前提にして重視していたのだと思います。

学生時代は、そのような方向性でカリキュラムが組まれていたように思います。毎週、医学部に行って階段教室で生理学や精神医学を学びました。生理学では必ず実験のデモンストレーションがあったし、精神病理学の講義は、患者さんに来てもらって精神科の教授と患者さんとのやりとりを聴かせてもらったりしたのです。今は、必ずしもそうでないところも多いですけれどもね。そういう点では生物としての人間を常に念頭に置きながら心理的な問題を研究するという考え方がずっと伝統的にあったと思うのです。

そういえば、以前に後輩に連れられて訪ねたオックスフォード大学の心理学専門コースは、『動物学と心理学学部』にありましたね。アメリカやドイツでは学部編成もあるでしょうし、大学によって心理学の学部の所属は多少違うかもしれませんが。最近、日本でも学部編成が認められるようになりました。

それから相川先生は、究極的に人間は物質ではないのかとおっしゃるわけですがね、確かにそうかもしれない。多分そうだろうと、私も思いますが。あまり心身関係の問題には近寄りたくないのですがね。なぜそう思うのかといいますとね、いろいろとあるのです。
例をあげれば、物質によって人間の根本的な相が変わる、というはどではないかもしれないが、確かに物質によって気分や心理的活動が変調したりするのですね。感情と言うと極めて人間的な心理的活動で、物質的なものの影響とはかなり距離があるように思われます。しかし、大脳の機能と直接関係があるのでしょうね。気分などは心理学の問題としては比較的身体的な基礎と結びついている、と考えられていますね。

臨床的にも経験することですが、疎通性のよくない患者さんが医師から向精神薬の投薬を受けて、その後、疎通性が見違えるほど改善されて自然になることがありますね。そこで始めて心理的な働きかけの効果が上がるわけです。人間の心理的な活動も、何か、物質によって左右される感受性とか脆さを感じるのですね。
ただ、反対の面もありますよ。物質を寄せつけない生活体としての強さも感じます。大脳の機能低下を防ぐために有害な物質が脳に入り込むのを防ぐ機制とか、他方、常識では考えられない精神的な能力を発揮するとか。

ただし、人間は結局物質だと決め付けたところで、何の理解にも解決にもつながらないことがあるわけですね。私も還元論的な論法に対して以前ほどむきになって反論しなくなりましたが、問題をどの次元でとらえるか、そしてより低次の次元とどのように関わる可能性があるのか、その事がある程度議論されていればよいのではないでしょうか。

いろいろな立場があるでしょうが、心理学は便宜的に心身二元論に立っているように見えますけどね。要するに心身の両側面をもつ人間として見ているのでしょうね。だから要するに物質だ、という発想は抑制しているのではないですか。

Q:そうですね。ただ距離が非常にあると言うのも確かですね。

大山:物質からどの程度までの距離を扱うのかということについては、少なくとも心理学は、あるいは私は生物学の水準までで、そこまでの間で一応人間を人間らしく見ましょうと、そんな立場なんですね。最近はあまり言われなくなりましたが、ゴールドシュタイン(Goldstein,K.)などが用いた生活体(organism)あるいは有機体という用語が妥当だと思いますが。

Q:その人間らしくというのはどんな意味合いをもっているのですか。

大山:とにかく一人一人違いがあるのだろうし、そうかといってある社会の枠の中で行動していますし、少なくとも生まれたときにはよくいわれるように、人間という動物として生まれてくるわけで、やはり人間になるのを学習しないと人間らしくはならない点があるのですよ。種を保存するための攻撃性や性行動などの無差別の発動が、ある程度社会性とか環境との関係で守られているのだと思いますが。

Q:そうなんですか。僕はもう細胞分裂の水準で決まっているのではないかと思っているのですが。

大山:最近の遺伝子の集中的な研究から2004年までにすべての遺伝子の担う機能が明らかになると言われていますね。勿論、それから先、心理学の知見とどのように関連するかは、まだまだ先の話だと思いますけどね。しかし、遺伝子の仕組みが意外に単純であって解読が一気に進んだという話を聞きますね。その単純さが曲者で無限の可能性を内在させているかもしれないし。
これからは、物質と生活体、あるいは心理的活動をつなぐ無数の仮説が生まれては消えるかもしれませんね。

Q:それで遺伝子レベルで見ますと、生物の種の違いではたとえばネズミと人の差はあまりないですよね。例えば、脳の機能にしても数回の細胞分裂をしなかったか、したかで人間と濃くらいの違いが出るのですね。そうすると、人と狭を分けている非常の大きな違いはそういう遺伝子レベルのちょっとした違いによるものであろうと思いますね。

大山:ただ、要するに単純なある一個所の明るい道、そういうものではないかと思われていますが、その道がどのように分かれているかが問題でしょうね。進化は、連続的ではなくて大変な飛躍があった、という話がありますね。遺伝子レベルにちょっとした違いの起こることが、もしかしたら飛躍なのかもしれませんね。言語領野の発達が進んでいるかいないかは、途方もない違いだと思うのですが。いずれにせよ、遺伝子やそれに関する研究の結果が、心理学を大きく揺さぶるでしょうね。

やはり何段階もの変化もあるでしょうし、複合的な変化が同時におこるとか、だからそういう意味で人間が人間らしくなる可能性をもって生まれてきて育っていくことは大変なことだと思うのですよ。それから進化の過程でみても、現在、地球上に生きている人間は、その人間に対して最近の人間はどういう点が問題かなどとよく言うけれども、言わば進化の歴史の中で生さ殆ってきたのですよ。

Q:そうですね、少し長すぎた?

大山:少し長すぎてくたびれてきたという考え方もあるかもしれないが、現在、地球上に生活している人々は、どのようであれ、長い生物の歴史のなかの生き残りでいわばパワフルなエリートなんですね。だからそういう点から考えれば、一人一人がすばらしい潜在的な可能性をもった存在であるはずだと考えて良いのではないかと。

Q:その辺が人格心理学を研究、人間を研究して人間の素晴らしさを知ると言う点が面白いと言うか、そういうことですね。


■普遍と個

Q:二番目の質問。そうすると、個々の人間が面白くて研究対象として人間を見るという時にはですね、例えば自然科学の手法でいうと、共通の部分を抜き出すわけですよね。そういう共通の部分と別個にもっているものの関係は、心理学の世界ではどんなふうに見ているのかな、とちょっと気になっているものですから質問させていただきます。

大山:これは長いこと一つの焦点でもあったと思うのです。現代心理学の父と言われているヴント(Wundt,W.)は、もともと生理学者だったのですね。たまたま、哲学の講座の教授になってこころを科学的に研究する立場に置かれたのです。ヴントは、生理学、特に感覚生理学に近い領域から次第に研究を広げて、一般心理学を研究する学問領域を確立したのですね。

Q:どういう意味なんですか。一般心理学というものは。

大山:一般心理学というのは、多くの人に共通な心理的側面、特に健康な人のね。健康と言うと間違いがあるかもしれないが、普通の人々に共通な部分を明確にすると言うことです。それが研究の重要な観点だったと思うのです。

Q:そうですね、そうすると自然科学の手法に近いですね。

大山:勿論、近かったのですね。ですからそういう点で研究の対象というのは生理学に近い感覚や知覚が主だったのですよ。
ただ、ヴントの研究の対象はそれだけかといいますと、そうではなくて文化とか民族とか、民族心理学という領域にまで関心があったようですね。だから、恐らく遠い目標としては、社会とか文化とかさらには民族あるいは習俗などにまで心理学の研究対象が及ぶと予測していたようですね。それがいくつかの心理学を生んできたと言えるでしょう。
ヴントの心理学は、その後多くの心理学者の批判の標的になり、新しい心理学の諸学派を生む契機になったのですが、弱点はあったけれども歯ごたえもあったのでしょう。

それから、心理学というのは、文科系の心理学というものばかりではなくて医学のなかからも心理学が生まれてさたのです。たとえばフロイト(Freud,S.)の精神分析学やユング(Jung,C.G.)の分析心理学や、現代精神医学につらなっている精神病理学ですね。

フロイトの精神分析学をいわゆる心理学と誤解している人がいっぱいいますけどね。勿論、心理学、特に臨床心理学への影響力は非常に大きかったのですが、精神分析学というのは、医療のなかで生まれた治療と結びついた実践的理論だったのですね。多分、心理学に飽さ足らないという側面が精神医学のなかにあったのですね。

Q:どうして蝕き足らないと思ったんですか。

大山:異常な心理的様相を解明するための心理学が独自に必要だったのですね。心理学は、知的機能の分野であるとか限られた範囲にとどまっていて、異常性の領域にはある程度までしか踏み込まなかったし、一般心理学は異常性を扱う精神医学の基礎としてはあまりにも地味すぎた。精神医学の側からは、両者の間には不連続な面が多い、と思われていた。しかも、精神医学では異常性と一般性あるいは正常性との間には質的な違いを前提にする傾向があったと思うのです。

だから、一般を扱う心理学との間の溝が埋まらなかった。心理学では、例えばアイゼンク(Eysenck,H.J.)などは、「一風変わった」という次元を追っているのですが、これは異常と正常との連続性を考えていて、質的な違いというよりは、量的な違いと見ている。

Q:でも、自然科学だと共通のもののほうに興味が行くのです。異常なものは取っておく、ある程度後に回すというアプローチの方が強いのですね。それで共通なものをまず明らかにして、そこに普遍的な何かがあるかな、というあたりで探りを入れていくのが今までやってきた自然科学の手法なんですけどね。

大山:その辺の住み分けは、やはりあったと思うのですよ。要するに心理学は正常な範囲での心理事象を扱う。それを基礎として、精神医学ではそこは心理学に任せておく。伝統的にね。それで自分達は自分達で必要とする、特に異常の問題を解明するのに必要な心理学を考えてきている。ところが、それはあまりにも個性的であり過ぎて、何か公共性をもたなかった名人芸という面もあるのでしょうね。

Q:話をパーソナリティ心理学の分野でみるとどうなりますか。

大山:そうですね。やはり最近は類型というものを、考えては壊し、考えては壊しているのが現状ですね。
ですから多分例えば大きく分けると、ヨーロッパ的な類型説と、イギリス−アメリカ的な特性論という、人間を要素的に多少分解して、その特性という要素で構成されているという見方と二通りの流れがあって考えられるのですが、ただその中間のタイプの考え方があります。類型であり、要素的、特性説を組み合わせている。
それでやっぱりなんていいましょうか、多分、研究者側の要求もあるでしょうし、そうしたくなるような要求もあるでしょうし、それから一般の精神医学者以外の方達も、人間早分かり法といいますか、いわゆる要求もあると思うのですよ。人間を手早く分かりたい。そのためには何とか手がかりになるものを得たい。或いはつくって欲しいというか、他人任せの要求もあるでしょうね。

だけども、なかなかそう簡単にはいきませんし、やはりどこかでなんといいましょうか、類型論にせよ、限界があって、ただ範囲内でしか何も言えない。そういう点があると思いますね。しかし、特性説に関しては、5つのかなり安定した特性(bigfive)が突き止められた、ということになっていますね。

Q:分類だと分類することによって何か浮かび上がってくるものがあるわけですね。それと分類というのはあくまでも現象論の世界ですから、その現象を分類してそれと因果関係をもつようなものを導さ出してくるところに法則性みたいのを自然科学の歴史では見てきたと思うのですね。心理学のパーソナリティの分類みたいな点ではそういうレベルで見るとどの辺まで進んでいるのでしょうか。

大山:くり返しくり返し、様々な類型説が浮かんでくるわけですね。これは心理学の領域ばかりではなくて、医学の内科の領域などからもあるのです。例えばAタイプパーソナリティとか。それと対照的なのがBタイプとか、その他、ガンなどの疾患との関係でCタイプなどまで出てきている。しかし、ある範囲の問題を説明するのにとどまっている状態だと思います。

Q:そうですね。アリストテレスの時代ぐらいからあるわけですね。先生の『人間への心理学的アプローチ』(学術出版社)という本を読ませていただくと、そういうことが書かれてありました。

大山:ただ、メタレベルというかそういう研究結果の歴史を研究する領域もいくらか強化されているというわけですね。多分顔は分かっていてもその背後にある仕組みは分からないといいますか、そういう側面が今まで現れては消えてきた、そういう類型説やその他のパーソナリティ理論もあると思うのです。何か共通したもの、重なり合った側面が今までの研究のなかではあると思うのですね。ただそれを言い切るまでには至っていない。

Q:言い切れないのは何か理由があるのですか。

大山:というのは、やはり人間は大体こういうものだと思う、ところが、社会的状況が変化すれば、思いがけなく人間が変わる面があるわけですよ。
例えば、日本の社会を考えてみれば、分かるのですけれどね。戦争中の生き方や考え方があったでしょうね。ところが敗戦をむかえて、これなどもう考えられなかったことだったのですね。そういうことを実感として体験しているわけですが、人間というのは適応能力があるのですね。状況が180度変わってもね。生きられる面もある。だから状況論で説明をしようという考え方が強まったのですね。

ある時期、パーソナリティという言葉は必要がないという考えもあったのですね。アメリカ的環境論の延長線上の発想でしょうか。何でも社会や文化、環境で説明しようとする。

Q:自己防衛なんでしょうね。

大山:ある時期はね。激変には耐えられない。だからそういうメカニズム等を心理学者が研究してさた歴史はある訳ですね。要するに人間というものは意外に強力だと言うことをつくづく感じます。それは後で出てくると思いますけれども、臨床的な問題でね。
例えば、平和な時代には、平和な時代なりに問題が起こってくるでしようけれども、人間はそれにどうやら対応していける。そういうことを考えると、そのような流れでもっと長いスパンでもって人間というものを見なければ、駄目な面もあるのだということで、今の人間についてはある程度いえるけれどね。


■「痛み」の研究

Q:先日テレビで、柳沢桂子さんという生物学者が体験した「痛み」のドキュメントがあったんですね。薬の副作用だと思うのですけれどね。それに村して三千通以上の視聴者からの反応があったようで、その紹介を見ていて痛みと言うのは非常に面白い話だなあと思ったんですね。それで大山先生も長い間痛みの問題に付いて研究されて、どんな観点からその痛みと言うものを取り上げているのかなと言うのをお開さしたいです。

大山:いろんな主題に手を出したのですが、痛みの問題は私にとっても古くて新しいものですね。私自身がかなり痛みを持っていたのです。痛みと関わりがあったのです。勿論今でもあるのですが。子どもの頃に罹ったカリエスの後遺症による深い深い痛みです。
最初に自分のかかえる問題から出発した問題意識はちょっと問題であると、そういう側面があるとお話ししたのですが、そういう点は確かにあったと思うのですけれども、たまたま臨床的な面と、実験的な面と両方で痛みの問題を続けていたのです。痛みや苦痛の問題は、生理心理学的な問題と限定して考える人もいるようですが、心理学から見れば仝人格的な問題、パーソナリティの問題なのですね。

一つは幻肢現象(phantomlimb phenomena)の問題なんです。特に幻肢痛の問題ですね。これは、既に、大学院の学生時代から精神科の医師や理学診療科の医師と一緒に現象の観察や実験をくり返していました。無いはずの四肢がリアルに感じられたり異常な感覚を生じるのは、随分昔から気づかれ指摘されていた現象なんですけれどね。
その幻の四肢、これは必ずしも手足ばかりでなくて、鼻や耳でも、それから女性の胸部とか。或いは歯でもありますね。歯のファントムというのもあるのです。入れ歯が合わない感じがするとかね。欠損した歯のイメージが残っているとか。とにかく身体の突出部が急激に失われるとそういう現象が生じるのです。しかもそれが痛みや不快な感覚を残すのです。勿論、何らかの理由で身体に片麻痺や対麻痺が生じた場合にも、このような異常な感覚が残って苦しむこともあるのですね。

痛みというのは、本来は危険を適確に知らせる目的をもった信号の筈なのですよ。ところが、ある時期からそんな必要がない状況になっても痛みとして残ってしまう。これも実は困ることなんですね。しかし、私は痛みや異常感覚などを心因的な観点から見過ぎるのは、特に気持ちの持ち方の問題や性格上の問題と関連づけるのは極めて危険だと思います。やはり、医学的な除外診断がしっかりと必要なんです。

30年間も、理学診療科と呼ばれた時代からリハビリテーション科で心理判定の仕事をしながら痛みに苦しむ愚者さんに出会い、そのたびに何とかしてあげられないものか、と思い続けてきました。痛みは徐々に活動意欲を低下させるし、関心や注意を狭くする傾向を招きますからね。鎮痛剤をむやみに欲しがる患者さんに村して医師のオーダーで薬物の量を減らす説得も病棟では心理判定員の仕事の一つでした。薬量を減らすのが基本方針でした。今は、随分痛みのコントロールも可能になったのでしょうが、それでも多くの人々が慢性痛で苦しんでいるのも事実ですね。

Q:痛みって何でしょうね。

大山:われわれの生命を守る大事な反応でしょうね。これが無ければ生き延びることは難しいでしょう。痛みをもたない人、無痛症の人達は絶えず怪我をする可能性があるでょうしね。痛みというのは生物にとって生き長らえるために必要なもの。われわれを危険から保護しているものなんですね。だけれどもある時は邪魔になるんです。それは、特別な時なのでしょう。それを見分ける根拠が必要なわけです。

Q:気持ちの問題なのか、それとも生理学的に自己防衛のために発している痛みなのかというあたりですね。どういう風に見分けるのでしょうか。

大山:それはやっぱり、医師の診断能力によるんじゃないですか。他人任せのようだけど。柳沢桂子さんの場合もそうだけれども何が原因なのか分からなかったのでしょうかね。医師は痛みの理由がわかっていてもいえない場合もあるでしょうが。原因が分からないことと心理的な問題が関与していること、をはっきりと区別すべきでしょうね。
しかしあいまいな点が、要するにそのグレーゾーンが痛みの専門家とリハビリテーションの専門の心理学者が共通の問題意識をもって対処する領域なのではないかとも考えています。以前は、総合大学の利点を生かして麻酔科の医師が研究室に議論に来られていました。

Q:もう一つ言えば、痛みの表現を他人に伝えることは非常に難しいと言う問題があるみたいですね。

大山:そういう点では、カナダのメルザック(Melzack,R.)等がいますね。枝らは、言語的にどのように痛みが表現されるかを研究しているのですね。やっぱり子どもは表現できない。それは言語的にもあるのですね。やっぱり非言語的な痛みの表現も理解できないといけないでしょうし、そういう点ではコミュニケーションの領域はJL、理学にとってもこういう問題を理解するのに非常に大事だと思うのです。病棟では看護婦さんや作業療法士、言語療法士の方達が苦心をしていますね。実際問題として痛みを表現することが出来ない患者さんもいるわけですからね。

だから患者さんからそういう問題を引き出すような対処の仕方を医師が考えて欲しい。柳沢桂子さんの場合も変調が始まった最初の時点で大変問題になっていたようですけれども、医師が柳沢さんのことを受け入れてくれなかった、ということを非常に強く書かれているでしょ。結局、患者さんから見れば痛いのですよ。気持ちの持ち様だといわれたって、痛いのは真実なんです。だから、おかしいなと思ったにせよ、医学的に根拠のある痛みではないのではないかと思ったにしても、やはり、患者さんの訴えを受け止める姿勢は必要だと思うのです。それだけで患者さんは痛みに対する見方や感じ方を変えていく面があるのですね。

痛みは、決して器質的、生理学的、生物化学的問題にとどまらないでパーソナリティの問題と関わっているというのはそのことなのです。私は患者としては、一人の医師を除けば、すばらしい医師達に巡り合うことが出来たので特にそう思うのかもしれませんね。

Q:そういうものですか。難しいな。

大山:痛いものは痛いんです。患者さんにとっては。ただ訴え方が大げさとか、いろいろあるのでしょうけれども。ただ大げさに訴える人は嫌われる傾向があるでしょうね。治療者の方から。そういった場合でも、むしろ表現がはっきりしているとか、分かり易いと取る必要がありますね。

Q:痛みを客観化することができればいいのですけれども。

大山:今のところはなかなか困難ですけれども、いろいろと考えられているのです。徐々に精度を増していくと思いますけどね。痛みの仕組みの解明と平行して進むでしょうね。基本的な方法としては10段階尺度を使うのです。例えば10点滴点で今日の痛みはどの位か。もうこれ以上は耐えられない、どうにもならない痛みを10とすれば今日の夕方はどの位の痛みかといったことを評価をしてもらう。その評価が出来るように愚者さんにもなってもらう。

Q:患者さん自身が自分の痛みを客観化できるようにならないといけないという意味ですかね。

大山:痛みは、感覚か感情かという議論がありますが、生活体全体としての反応ですから感情を含みます。患者さんとの付き合いがあれば、痛みを大げさに言わないといけないとか、あるいは逆に大げさにいうとまずいとかね、いろいろと患者さんが考えたりしていることがある程度感じとれると思うのです。こういった類の痛みに村する特殊な反応をしなくてもよいのだという安心感を患者さんにもたせるとか、そういう状況で評価をするとかね。患者さんも痛みを客観的に表現する仕方を徐々に学習する面があるのです。

非常にわけのわからない痛みをもっている患者さんの例がありましてね。医師の評価によれば、やるべき治療はない、心理的な問題だということで対応した例があったのですが、私は恐らく医学的にも理由があったのだろうと思います。病院を転々としてきて、医療の場面などでいろいろな治療をされてきた。これは致し方のないことなのでしょうが、この患者さんは痛みに対する単純な反応ばかりではなく、治療に伴なう非常に複雑な人間関係をつくってしまった、と考えられますね。
この例の場合は、担当医と充分打ち合わせをして偽薬に対する反応をみた上で薬物は一切用いないことにして、主として話し合いによって依存を軽減する対応をしました。考えてみると慢性痛はその人にとっては大変なエネルギーの揖失をともないますからね。

医師から催眠誘導による痛みの軽減のオーダーが出たのですが、被暗示性が異様に高くて、それ自体が非常に興味がありました。

Q:心理的な要因もふくめて痛むのでしょうからね。

大山:そうですね。表現もふくめて。

Q:そこまでふくめて治療をしなければいけないのですね。

大山:そうですね。これはいうまでもなく医師の領域だと思います。基本的にね。ただそういう知識を提供するのは臨床心理学の専門家が役立つのではないかと思うのです。


■「臨床心理士」制度

Q:最近こんな本(「臨床心理学入門大学院編」)を読んでみたんですけれども、日本の臨床心理学というのはこれからどんなふうになっていくのかということと、うちの大学の人間情報学研究科での臨床心理学の教育というのは今後どうなっていくのかなという展望をお持ちなのかというあたりを、お聞さできればと思ったのですけれども。

大山:臨床心理士という資格の前に、認定心理士の資格のことを話しましょう。認定心理士に関しては東北や北海道地区では、東北学院大学の卒業生で認定を受けた数が今のところ一番多いのです。ただし、これは学部の段階で心理学をしっかりやりましたよという日本心理学界の認定なんです。これは非常に大事だと思っていたのです。いろいろな理由がありますが、やはり心理学をどう考えるかはカリキュラムに反映されますし、基礎的なカリキュラムをさちんと組んで学習をしているということは、基磋的な水準を維持していることを表していると考えていいですね。

心理学科という名称を持つ学科には、認定は必要がないかもしれません。ここの専攻は人間科学ですから、その中で心理学の基礎をしっかりとやっていますよ、とはっきりさせる点では認定心理士の意味は大きいと思うのです。ただ、若い認定心理士達、特に一般企業に勤めている人達に村して制度をつくった学会がどれだけまともに報いているのかというと、かなり疑問に思いますけれどもね。

次に、ご質問の臨床心理士の制度の問題ですね。この資格の社会的な意味合いはまだ流動的だと思うのです。心理臨床学会が主体になって発展した臨床心理士認定協会が行う資格なのです。国家資格ではありません。例えば、医師とか看護とか、薬剤師とか、社会福祉士、栄養士、などの資格とはちょっと違うんですね。
本当は、法的に国家資格として支持されれば一番よいと思います。ただし、国家資格になるかどうかは別として、現実は、どんどん進んでいるのです。臨床心理士の認定協会が大学院修士課程のためのカリキュラムを決めて、臨床心理士の資格を持つ教員が何名いなくてはならないとか、学生をトレーニングするための実質的な内容をともなう相談機関を持たなければいけないとか、決めてしまっている面があるのですよ。しかも教員になる数が激減した多くの教育学部系が一斉に、本学の教養学部に瓜ふたつになりつつあるのです。

社会でどの程度の常勤職の確保がきるかの見通しは必ずしも明らかではないないのですが、大学によっては、臨床心理士関係のカリキュラムを組んで再編成を終了しているところが次々と出ています。しかもそれにつながる学部や大学院が比較的良質の学生を集めている。まだ不安定な状況の中で、進学してくる学生の要請も勝手にふくらんでしまっている、そんな感じなのです。」

いずれにせよ人間情報学研究科という様々なクルーの乗る限定された大学院という一つの船の中で考えなければならない問題だとは思うのですが。

Q:今本学の大学院に来ている学生のモチベーションの辺りで考えますと、臨床心理士の資格がとれるような、そういうモチベーションを持っている学生さんはけっこういるのではないかなという感じなんですけれども、どんな感じなんですか。

「今、在学している心理系出身の社会人の学生さんは、いずれも臨床心理士の資格を持っている方が少なくないのです。その他では看護の資格とか、あるいは大学の教員とかね。これから大学院を目指してくる人の中には、臨床心理士を希望する方が多いのではないでしょうか、しかし、すぐには対応できないと思います。いまは、他大学の大学院に積極的に出しています。」

「将来のことを考えるとしても合意が必要ですしね。そうでなくても学内事情で講義の開講粋が縛られているのが現状ですから。」

Q:ここの大学院をどんな位置づけにしていくかという辺りを考えると、実学的側面を強くした方がなんとなく得なのではと最近考えているんですけれども。近くに東北大があって、そこで基礎的な研究をしていて、やはり実学的な側面が軽視されているか、二の次になっている側面があるのですから、そういう部分を吸収するような、大学院をここに置いたら、存在価値がある大学院なのかなと思っているのですけれどもね。

大山:東北大学という基礎系の充実している大学が近くにあるというのは、便利な面とやりにくい面があるんですね。ただし心理系に限っていえば、東北大学は教育学部が昔から臨床系に力を入れていた歴史がありますし、文学部の心理も応用心理学という呼び方で基礎と実学的な面の両立に努力していたのですね。今や、在仙の私立大学では、福祉心理学科とか、発達臨床学科とか、教育心理臨床とか、既にモデルチェンジを達成しています。

大学間単位互換を推進する手もありますが、大学間の生き残り競合が激化している現状ですからね。いろいろと制約のある中で工夫が必要でしょう。本学教養学部のように多様性に富み、しかも開講枠がかなり制限されている場合はね。


■心理学研究者の系譜

Q:子どもの頃に大きな病気をされた経緯があって心理学を選んだのではという気がしますが、ぶしつけな質問ですがその辺をお聞かせ下さい。

大山:心理学をまったく知りませんでしたから、直接ではないのですが、幾つかの過程を経て、結果的にそうなったと思います。

小学校4年を終了した時に、結核に罹りました。当時としては、それこそ珍しい病気ではないのですが、亡国病などと呼ばれていましたね。肋膜炎を起こしてそれが両方の股関節や膝の骨にきたのですね。猛烈な激痛で、まわりを人が歩いても響いて泣き叫んだものです。当時、埼玉県の与野にありました日赤に緊怠に入院しました。その後、通算8年間は全く仰臥の姿勢で寝たっきりで過ごしたのです。預から左脚は爪先まで、ギプスに入ったままでした。全く虫の息の状態ですね。

当時は家は埼玉県の浦和にありましたから空襲が激化して昭和20年4月に父の実家の仙台に帰ってさたのです。ギプスのまま父親に負ぶさってしかもその年の7月10日、夜半の仙台空襲で、庭にも焼い弾が落ちたものだから母親に負ぶさり逃げたのです。不思議ですね。人間、火をみると川に逃げたがるのですね。広瀬川の川面は一面火の海でした。目の前の道路に黄燐焼夷弾が落下したので引き返したのです。

結果的には、仙台では自宅療養で社会的隔離の状態でしたから、人間らしくなるまでには大変時間がかかりました。親も生さていればよいと思うだけでどうすればいいのか考えが及ばなかったと思います。勉強のことは何もいいませんでしたし。子ども心にも勉強をしなければと焦っていたのですが、どうしたらいいのか分からなかった。

新制中学の3年に編入させてもらったのです。これは、当時の小学校や中学の先生方の判断で、そうして下さったようです。先生方が飛び級の責任を負うことになったわけですから、大変なことだと、今、改めて思いますし、どのように感謝してよいのかわからないですね。

Q:その辺りから人間に興味を持ったということですか。

大山:興味をもったというよりも必要に迫られたのでしょうね。けれども、自分では焦りはあるけれども展望がまるでなかったですね。今の言葉でいえば、モラトリアムですかね。何をやっていいのか分からなかった。主治医が相談に乗ってくれたのです。理科系は駄目だろうと。理科系は、立ったままでかなり長い実験があるから向かないのじゃないのと。正直のところ理科系とか文科系の何たるかも分からなかった。勉強の上でも基礎が出来ていないということですね。そういう点では、気長にやった方がいいのじゃないかという示唆があったわけですね。医師に人生相談までしてもらった。今では、こんなことはないでしょうね。

Q:最終的に心理学の学者になろうと思ったのは何時頃ぐらいからですか。

大山:心理学の学者になろうとは最後まで思っていませんでした。大学の4年間は追いつくことがテーマだったんですよ。皆のレベルに。心理学は視野にあったのですが、はっきりしたものではなかった。ただ3年生に進級するときに専攻を決めるのですよ。だから心理学を主に学ぶようになったのは、3年生からです。今の本学の学生に比べればカリキュラムなどは、はるかに大雑把だったのかな、と思います。色々考えて多少人間に関する勉強をしてからその後、もっと考えてから実学をやろうと思いました。焦っていたわりには、気長だったのです。

Q:それはできるだろうなというのが一緒についてまわったでしょうね。もう少しやれば何とかなるという感触の自信というものに。

大山:やはり、歳だけくっていて基礎知識のない生徒に村する中学、高校の教師達の影響とか、専門分野の恩師達のそれぞれの、大学の教養部で社会心理学の安倍淳一先生、学部では実験心理学の大脇義一先生、とりわけ、北村晴朗先生の影響が大きいと思います。
北村先生は、私が大学院に入るときに講座の主任教授になられ、そこで院生時代を過ごし、そのうえ助手として使っていただいた。租は何となく、徐々にそういう気になっていった。そうでなかったら多分、右往左往しながら渡れていたかも知れませんね。大学院では、先生から基礎領域と院床を平行してやるようにといわれました。私にとってはそれがよかったと思います。それに、今でいうところのスーパーパイザーに相当する才気換発の良き先輩がいたことですね。改めていまさら別の額域を勉強する状態に後戻りはできないのではないか、と思い始めたわけです。

Q:それはそこでなにかをつかんでいることと、それ以外をつかむのは大変だなと両面があるのでしょうね。

大山:そうですね。アメリカの心理学者にも、例えばハル(Hull,C.L.)などは、専門が数学だったんです。三十歳頃から心理学を始めたんです。それから有名なマレー(Murray,H.)というパーソナリティ心理学者、特に投影法などで良く知られた人がいるのですが、彼なんかは専門が化学だったのです。

Q:どうしてそこに転身したのでしょう。

大山:ヨーロッパをふくめて、特にアメリカでは多面的に厚みのある勉強をしようとしたのではないのでしょうか。あること一筋というだけではなくてね。

Q:化学の次に心理学をやるっていうと何らかのモチベ←ションがないとそうは移らないですね。

大山:意外にそういう人は少なくないですよ。例えば、スキナー(skinner,B.F.)は、日本でいえば国文の専攻なのです。それが心理学。だから言語学習もやっていますね。

Q:そういう話は心理学の前にやっている学問が生きている。その人の心理学を特徴づけしている面があるという側面があるのですね。

大山:だからマレーだってね、人間の欲求を細かく分けたんですよ。かなり化学の物質の基礎みたいに人間の欲求を丁寧に分けています。

Q:意外といいのかもしれないですね。他の学問をやっていて。

大山:有名なロジャーズ(Rogers,C、R.)は、農学をやってから神学や教育学、結局は隋床心理学と移って行ったのです。最初は児童相談所につとめて子どもから、心理療法の人間観にも農作物を育てるような、自然に育つのを見守るような、そういう発想が感じとれませんかね。それから知能の実験臨床的研究で高名なピアジェ(piaget,J.)は紛れもなく原初的な生物を扱った生物学者だったし。

Q:心理学の本格的な起こりは19世紀ぐらいですか。

大山:そうですね。大体ここ120年間くらいですね。歴史的には、東北学院大学よりやや先輩ということでしょうか。年代的な区切りとしては、現代心理の父といわれるヴント(wundt,W.1832〜1920)が心理学実験室を創設した年(1879)とされていますが。ただし、それぞれの心理学の起こりは多少違うし、影響を与えた学問領域の発生をたどれば、明確には決め難いのではないですか。

Q:時代の要請っていうのはあったでしょうか。必要だという。

大山:あったでしょうね。一方では、当時の生物科学の限界もあったでしょうし、一方では、心の新しい問題の発生もあったでしょうし、その問題への対応の必要性も求められたのでしょうね。

Q:それがオーストリア辺りが中心になっているというのがまた面白いですね。

大山:心理学はドイツが中心だったのですけど、異常心理学も含めて医学系の心理学は、オーストリアとフランスを中心に発展したと思います。それから失語とか失行、失認などの神経心理学ですね。欧州は、地続さだし国と国とが融合したり分離したり、人の交流も活発だったでしょうし。社会的な制度も変わり始めていた。

第一次大戦から第二次大戦にかけてドイツでは心理学が盛んになるのですが、ユダヤ系の研究者が少なくなかった。それが欧州の社会情勢の変化によってドイツやオーストリアを出てしまった。それが欧州的な心理学の衰退につながったのでしょうね。そして優れた心理学者や精神医学者がイギリスやアメリカに移動した。

今のような傾向の心理学の発展は、むしろ、イギリスやアメリカなのですね。特にアメリカでは社会の要請があったのでしょう。教育や精神保健、地域社会や行動科学とか。あるいは、職業選択とか、人種問題とか、第二次大戦の影響もあったと思います。

Q:臨床心理学に近い発想のものとしてアドラー心理学があると思うのですが、アドラー心理学を眺めてみると常識以上のことは言っていないなと感ずるのですが。このような世界で研究するとはどんなことだろうかと思ってしまいます。

大山:そうですか。私は、アドラー(Adler,A.)に特に関心があるというわけではないのですが、学生時代に、フロイトやユング、アドラーなどの講義は、教育学部の臨床心理学や恩師からパーソナリティの特珠講義で聴いたり、講読で部分的に読んだのを記憶しています。それ以来、講義など必要に迫られて、という程度ですね。

アドラーは、あまり日本では人気がないといわれているんですね。どうしてこうなんだろうといっている人もいるんですが。ユングに関してはかなりの翻訳や関連した本があるのですけどね。アドラーの心理学も医学から生まれた心理学の一つですね。

アドラーの考えは、その頃としては、現代の心理学につながるきわめて基本に近い考え方のように思いますね。発達過程の子どもの問題に関心をもち、教育の、あるいは今でいう治療教育の考え方に基づいていたと思います。人間の社会性を非常に重視したということですね。

劣等感に関する不適応的な意味づけを明るい方に向けたということもあります。ただし、劣等感の補償の仕方が変な方向に行くと不健康になる。しかも、劣等感は普遍的なもので、成長力の源泉になると。教育の可能性を認めていることと、明るく努力すれば報われるという点で、アドラーの心理学は、まさにアメリカ的な希望の心理学につながっている、と考えてもよいでしょう。例えば、マズロー(Maslow,A.H.)の自己実現の枕念とか。

Q:話自体は非常にまともなんです。このまともが学問になるかというくらいのまともさなんです。これをどうやって学問にするのかな。

大山:常識の域を出ないという点については、時代とその背景を考えなくてはいけないかも知れませんね。今の常識の一面を築いたといえるかもしれません。ちょっと屈折した人間観や心理治療の仕方が一般化した時期もあったんじゃないのかな、と思います。悪い意味の心理主義が一気に広がっていたのでしょう。アドラーの優れた点はそういう背景の中で社会性の重要性を示唆したところでしょうか。自分の精神分析学を個人心理学(individual psychology)と呼んでいますよ、彼は。社会性を考えた上で個人の適応の仕方に注意を向けた。現代の心理学のある領域に村して非常に影響力をもった。
ただし、アドラーの影響力と誰もいってくれないというところが問題だ、という指摘もあるのですね。

Q:それはだから常識以上のことは言ってくれていないからだと思うのです。常識以上のもの言っていないときに、それを学問としてどういうふうに成立させるかな、と思うのです。僕は思うのですけれどもね、一つだけあると思うのです。常識と思っていることが本当に事実なのかどうか確認することは学問だと思うのですね。

大山:特に心理学の場合にはね。常識と思っていることを一皮剥いたその下の辺りを確認して行く作業があるのではないですか。しかも、次々と現れて心理学と自称するあやしげな事柄を打ち消しながら、地味な作業をするのは大変ですね。言いすぎかも知れませんが、心理学の系統的な教育を受けない方のいう心理学は、何処か妖しく、不思議な感じがするのです。過度に確信的で。

他の学問領域の人達が、心理学と思って批判する対象が、実は、心理学でない場合も多いのです。今や、何でも「心理」を付ける傾向がありますからね。本当のところ、物理、生理、心理、は同じ根から生えたんだと思いますよ。

人間に関しては、うがった見方とか、意表をついた見方とか、そういうものじゃないと、なかなかなるほどと思ってくれないところがあるのですが、普通の事象を確認して行く作業も必要だと思うのですね。私の総合研究(学部の卒業論文)のグループの主題は、「社会変動とライフスタイル」なんですが、社会学のゼミと生涯教育のゼミと一緒に発表会をするんです。なるほどと思うテーマが多くて、こちらが頂さたくなることがあるのです。いろいろな領域との共同作業が人間情報学の大きな主題でもあるのだと思いますね。

 今日は大山正博先生にお話を伺いました。先生は現在教養学部長ならびに大学院人間情報学研究科研究科長をなさっており超多忙な中を時間を割いていただきました。先生からインタビューを受けられた感想をよせられていますので最後に紹介しておさます。

感想:相川先生からの予想もしない矢継ぎ早の質問で、先生の専門の宇宙に放り出されてしまった、というのが実感であった。当然のことながら、こころと物質を結び付ける議論の発展は不十分に終わったが、こころの科学への関心の高まりは、既に、以前から予測されていたことである。恐らく、混乱と統合をくりかえすと思うが、その過程で、心理学と巡り会いそれを専攻した一人として、多様な心理学がそれぞれ確固とした役割を果たして欲しいと願うこと切である。

(1999年12月25日収録)

※ このページは、2000年3月刊行の『人間情報学研究 第5巻』に掲載された記事を元にしております。その後、略歴や所属等に変更がある場合がございます。


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