所員インタビュー
齋藤 吉雄 教授
社会学のRaison d'Etre



インタビュワー・構成 相川利樹



 所員インタビューの第三会目として今回は社会学の齋藤吉雄先生に登場願いました。
 齋藤先生は、「社会学的なものの見かた」という問題に長い間拘りをもたれ、「役割理論」や「コミュニティ論」で現実の日本の社会現象を社会学的に見るための理論的な枠組み提唱されてきました。さらに、現実に起こる社会的な問題の意思決定に専門職として社会学者が社会学的な知見を使ってアドバイスするといった「応用社会学」といういわば臨床社会学の必要性を説かれている。

 今回の聞き手は人間情報学研究所所員の中では天体現象といった自然科学的手法が幅を利かしている分野を研究している。


■社会学研究の醍醐味


Q:まず、素朴な質問:長い間社会学の諸問題を研究されてきて、社会学研究の醍醐味といったものを感じていられると思いますが

齋藤:社会学的な研究の目指すものは、必ずしもはっきりしないのですが。いわゆる、『予言の自己成就』という言葉がありますが、誤った観念、理屈さえも『そうだ』と言いふらして世間の人が承認して行動する、つまり誤った観念が現実化するといった社会現象のからくりを知りたい。
齋藤先生の写真
(さいとう よしお)
1926(大正15年) 生
1951年 東北大学文学部社会学科卒
1954年 東北大学大学院特別研究生終了
1955年 東北学院大学専任講師、56年 助教授、65年 教授
1967年 東北大学文学部助教授、74年 教授
1990年 東北学院大学教養学部教授
それに、意図した行動の意図された結果がどのように出来上がったかということだけでなしに、意図した行動に伴って付随的に意図しないいろんな影響がでてくるわけすが、これらを『潜在的機能』(latent function)というんですが、そういったlatent functionを明らかにするといったことに、社会学研究の醍醐味というか、喜びを感じますね。

Q:通俗的な先入観では見えないものをみたいということですね

齋藤:たとえば、例として、デュルケーム(Durkheim E.)が『雨乞い』といったようなものを取り上げています。部族民が一生懸命にみなが共同して太鼓を叩いたり、火を焚いたりして雨を降らせようとお祈りをしている。ここで、雨を降らせようとするのは、言わば顕在的な機能・目的ですが、その『雨乞い』で部族民が部族の危機に対してみんなで一生懸命に行事に参加するということによって、言わば部族民の団結心・連帯心が高まるついうことが潜在的機能なんですね。

このような潜在的機能を分析するのが社会学なんですね。かならずしも、顕在的に意図された結果がそのままどう現れたかと分析する、これも大事なことなんですが、意図した行動の意図せざる結果というか、そういったことに目を据えて行くところに社会学の分析の面白味があるのではないかな?


■ホモ・ソシオロジクス

Q:先生が長いこと手がけてこられた「役割論」(「ホモ・ソシオロジクス」)(たとえば、『ホモ・ソシオロジクスーーR.ダーレンドルフノ役割理論ーー『現代社会における人間の問題』)や「コミュニティ論」(『コミュニティ概念の再検討ーーその事実性と規範性』)は、人間や人間集団を如何に社会学的にモデル化するかといった問題だと理解しています。自然科学でも自然現象を理解したいときモデルをつくることは常套手段ですが、モデルはある意味では近似ですが、枝葉末節を削ることで本質的なことが見えてくることがあります。人間や人間集団の社会学的なモデル化でどのようなことを解明したいのでしょうか?

齋藤:自然科学の場合にはモデルというものはその自然現象を作り出している本質を表現したものといわれますが、僕なんかの社会学の場合はどのような観点で現象を捉えると社会学的なのかということが気にかかるんですよ。ものの本質よりは、経済学でない、心理学でない、あるいは宗教学でない立場から、どういうふうにモデル化するのが社会学的なのか。このことが一番気にかかったのですね。

それと同時に単に社会学的であるということだけでなしに、その方がほかのアプローチより”よりよい”と主張したいんですね。だけどそれが言わばものの本質そのまま現しているということには、あるいは本質を掴んだということにはならないような気がするんですね。

Q:ならなくてもよいというか

齋藤:そうです。ならなくてもよいという開き直りがあるわけです。
ただ、いままでの社会学ではこのことを自覚しないで、なんか、自然科学と同じようにエッセンスをモデルとして掴まえるいう考えかたが支配的ですが、その前に、社会学的なものの見方、考え方というものが一番気に懸かって、そんなことを一生懸命やったのが大部分、私の社会学のような気がするんですが、、、。

コミュニティ論にしろあるいは役割論にしろ、たとえば『役割』というのも日常語のそのままなんですよね。原形はもう日常語にあるものをいかにして社会学的な操作概念として作り変えるかといったことが、それはモデルかもしれんが、単なるモデルじゃないんですね。

Q:社会学的といったことは、先生のなかでは、どんなことが達成できれば社会学的なんですか?

齋藤:やっぱり、社会との関連においてみていくというか、常に人間の行動なり意識なりをその社会との関わりで見ていくことでいうことが社会学的だと考えるわけですね。

それを心理的なものに還元したり、生理的なものに還元したり、風土的のものに還元したり、あるいは、形而上学的のものに還元したのでは社会学ではないんで、社会的なもの、いわば、どういう人間関係や社会関係の当事者であり、どのような集団や組織に所属し、あるいは所属しないまでもどういう集団や組織にあやかろうとしているか、これを準拠集団というんですが、また、いろんな職業階層や身分の中でどういう位置を占め、どんな役割を期されているのか、それをどのように自覚し、実際の行動で表現しているのか、要するに、『社会的な位置の関連で人間をみいく』、これが僕の役割理論なんですが、、、。こういうことが社会学的だということですよ。

このような意味で、自然科学でいうモデルとの関係でみると、モデルというとエッセンスに最も近いものを、枝葉末節を取り払って、表現したものと考えられるもですが、社会学的なモデルにはそれに余計なものがくっついているわけですね。

経済学的にはもともとホモ・エコノミックスというかたちで経済人というものをモデル化する。社会学では、社会学的な人間像ではホモ・ソシオロジクスというかたちでモデル化をされているわけです。

Q:そのような社会学的な人間像を持つことによって現実の社会現象に切り込むわけですね

齋藤:このようなモデルが経済学や心理学では捉えられない人間関係なり、人間の行動なり、意識なりをより明らかにすることができて、それが十分に面白いという発想なわけです。


■学説・理論・調査

Q:先生が総括をなさった科研費研究の総合報告でしょうか、『コミュニティ再編成の研究』を拝見しますと、お聞きしたような社会学の理論的研究とケース・スタディとしての調査研究との距離があまりのも大きくてこの2つは繋がるのかなと見えることがありますが、どのようにお考えですか?

齋藤:これはですね。社会学の理論研究はというと、従来のオーソドックスな理論というと学説研究なんですね。学説を研究してその論理を自分なりに理解して、再構成するといったようなことが理論研究なんですが、僕の理論研究ではかならずしもそうではなくて、先ほど議論したような社会学的なモデル(たとえば、社会学的な人間像としてのホモ・ソシオロジクス)を作るという点に主たる関心があるわけです。

そしてそれらのモデルの相互間の関係なり、因果関係なり、相関関係なりを明らかにし得るようなものが本当の理論であろうと考えているんですね。単に学説をそのまま受け売りして論理を明らかにしても、それは現実とは遠いという考え方があるんですね。

Q:社会学のある学説というのも、ある時代、ある社会での社会現象なりを観察して得られたもので、これもこれでモデルではないのでしょうか?

齋藤:これはアメリカの社会学者のマートン( Merton R.K.)が指摘していることなんでですが、学説、学論というか、あるいは概念規定といつたことは理論のための道具であって理論そのものでないわけです。理論は要するに変数間または属性間の関連について一義的に説明できるようなものが本当の理論なんですね。

Q:そうですね。これは自然科学の理論でも同じですね。加速度や力といった概念を規定して、この二つの変数の間の関係を確立するのが理論、たとえば、ニュートンの運動理論ですから。

齋藤:学説は過去の過ぎ去った事態について、時代によっては陳腐になってしまった議論であって、現実、しかもそれぞれの現実は極めて多様で、その学説がそのまま当てはまらないわけです。

Q:自然科学の場合には、理論が関連する現象をうまく説明していないというような形で提示され、そのことによって概念規定そのもの(学説)の再検討(批判)がなされるわけですが

齋藤:社会学の場合は、現実の社会現象とは切り離されて、単に学説批判をすることが理論研究であるかのような風潮があるわけです。特に、日本のように後進的な、後で輸入学問として成立した社会科学や人文科学の分野では、そういう学説を一生懸命に横文字を読んでその論理を解きほぐして、なんとなく自分なりに再構成するいったことが理論研究だと考えるをわけですね。

そこでは、現実からはそれこそ離れているわけですね。現実の日本の社会というのではなくて、西欧の社会、あるいはアメリカの社会で作られた学説をそのまま日本には当てはまらないわけです。僕が社会学を始めたころのかっての日本の社会学では、社会学と称しながら、現実の日本の社会現象を直接研究しない、西欧の社会学の学説を研究するということが多かったですね。

それに対して僕自身は、現実からその社会学的なモデルを作って仮説をたて、いわゆる変数間の法則性なり、レギュラリティを発見してその仮説の立証するというかたちのものが本当の社会学の研究であろう思っているわけです。

Q:先生の言われることは自然科学でやっていることそのものですね

齋藤:それはですね、だけどある意味ではオーソドックスな社会学ではないんです。僕自身が東北大の学生のころ、清水幾太郎氏が非常勤講師できておられ一・二週間で、『普通講義』と『演習』を担当していました。 そして、演習でとにかく洋書を一冊読んできて報告をしろというわけでした。その時僕はアメリカ文化センター、今の斎藤報恩館のあるところですが、に赴いて、ランドバーク(Lundberg,G.A.)の”Foundation of Sociology"という当時最新の本の貸し出し受けて、報告することにしたんですね。そして、この本を手がかりに自然科学としてのソシオロジーということを主張しました。

社会学は普通自然科学でなくて、人文科学だといわれているのに対して、この本では、社会学が本当に科学になるためには、自然科学と同じような論理に立って、概念をできるかぎり厳密にして操作化すること、あるいは比較可能なようにできれば数量化するとか、測定できるようにするといったことが主張されていて、こりゃ面白いと思ったんですね

これに対して、当時のオーソドックスな社会学というものは、やっぱり、解釈とか、歴史とか、そういったことで、操作化するというよりは、『社会の本質』を直感的に捉えるのが社会学だというような風潮が強かったですね。

マックス・ウェーバー(Max Weber)などはある意味ではまた違う立場ですね。理念系的なモデルを作って理解をして、そして、どういう目的でどういう手段を使っていかに実現したかというような『行為理論』に関心をもっていたわけです。

これに対して、自然科学としての社会学だとやっぱり因果関係を確定するといったことに関心があるわけで、目的といったものは結果であって、どういう原因でそのような結果(これが社会学的人間の目的なんですが)が生まれたのかを探るわけで、因果関係が逆になっている発想なんですね。
このような影響もあって本格的に社会学を始めようとしたときに、なにかやっぱり厳密な自然科学に対する憧れというか、自然科学としての社会学といったものを考えたのです。

Q:最初の質問に戻りますが、社会学と理論研究と調査研究との相互関連といったことにはどのようなお考えですか?

齋藤:従来の伝統的な文学部などの社会学での理論研究はお話したように主として学説研究なんですね。一方、調査をやる人間は、大体調査といっても今のような数理的な調査でなくて、ケーススタディなんですね。現実に飛び込んで問題を自ら発見して、理論とは全然関係なしにあくまでも現場中心主義なんですね。まあ、文化人類学的な調査もそうですね。なんか理論的な要求をもっていくと本質は掴めないというような考えですね。農村社会学とか、昔のコミュニティ研究などもそうですね。
当時、教育学部の社会教育学の担当教授であった竹内利美氏なども、社会学は本来民俗学(Folklore)的なものであって、社会学の理論などどうでもよいこで、むしろ一番重要なのは裸になって虚心担懐に現実に入って、現実から問題を学びとる。そして、そこから本当の現実の社会についての役にたつ理論も構成できるというような考えでしたね。

だから、普通の学説研究の理論的研究、と調査研究(家研究とか、村の研究とか)とは全く乖離しておったんですね。たとえば、村の研究といったような場合も、中村吉治氏などの経済学系の人たちは村に入っていって、そして村のなかに見られる人間関係なり、社会関係なり、共同の連帯なりを見つけ出してここで初めて『村とはなんぞや』に答えるべきだいうのに対して、僕は一生懸命に社会学的コミュニティ論や共同体論との連結を考えて、それによってはじめて社会学的な村落研究になるんだと主張して、『コミュニティとはなんぞや』とか「村とはなんぞや』といった概念の吟味をしたわけです。

日本の村落あるいは日本の社会について、モデルといったものはいままであまりない、出てこなかったですね。せいぜいあったのが、タテの本分家関係を軸とした『同族結合のムラ』とか、ヨコの『講組結合のムラ』とか、中根千枝氏の『タテ社会の原理』などですかね。何れも具体的のモノグラフを基礎にして構成されたものであって、西欧の学説から演繹されたものではないんですね。もちろん、事後的に、マルクス(Marx, K.)やウェーバー(Weber,M.)の学説との繋がりをみようという研究も現れましたが、、、。

僕は、自分が調査研究をしてる日本の地域社会の解明に対して、ウェーバー、マッキーバー(MacIver, R.M.)、パーソンズ(Parsons,T.)などの所説を適用したらどうなるといったことを一生懸命に考えて、実証的な調査研究と理論的な研究とを、何とか媒介しようとしました。そのような試みが私のコミュニティ論だっりするわけです。

Q:自然科学では、実験と理論は車の両輪のようになっていて、理論は実験で検証されなければならないし、実験は新たな理論的なMotivationを生み出して理論をさらに深めるといったことをやるわけですが

齋藤:社会学でも教科書的にはそうなっているわけです。しかし、現実にはモーレツに乖離しているわけですよ。
理論研究は学説研究であり、たまに評論家的に現実をちょっとみるだけであって、実証はなにもしないわけです。一方調査の連中は現場に入り込んで理論との関連など気にしないわけです。本格的な調査研究者はまず現場主義ですね。典型的なのは、前にいた江馬君なんてそうですね。

Q:日本社会とか、アメリカ社会とかは歴史的に異なったプロセスで形成されていたわけですが、社会学では、同じ理論が適応できるような包括的な理論というものか可能なんでしょうか?

齋藤:それが一般理論という形で、前に整理したことがあるんですが、理論のなかにも”ソーシャル・システム論”であるとか、”集団論・組織論”とか、一般的にあらゆる人間社会に当てはまるもの、たとえばパーソンズでは構造機能主義という形であるわけです。これに対して、マルクス主義なり、ドイツの文化社会学(Kulter Soziologie)ということになると社会の歴史性に着目して、社会の歴史的な個性を導き出して記述するわけ。理論にも二つ流れがあるわけです。

社会学も成長の過程で理論と調査は統合されるはずだと思いますし、統合できなければ社会学は本格的な経験科学にならないわけですが、ただ一挙にあらゆる社会あらゆる時代にあてはまるグランド・セオリーなんてまだ早いな。ミドルレンジ・セオリーいうか、適応の範囲は時代的にも空間的にも相当限定されるんだけれどもこの限りにおいては、調査に基づいて一般的にいえること、法則性といったものが導きだされる。現在は社会学はミドルレンジ・セオリーの時代だというわけです。

Q:カオス理論では複雑な時間変動現象も簡単な非線型系の振る舞いとしてモデル化できるということで、複雑な系の研究も還元主義的な考え方で行けるに見えたのですが、最近の複雑系の議論では、複雑な系は複雑なものとしてだけで見るべきだといった考えも出てきています。私自身は、複雑な系も還元主義的な基本要素に分解してその要素の相互結合で理解できるだろうと思っていますが。社会学の分野でも、理論と調査との関連などで似たような議論があるんでしょうね

齋藤:いままでの農村社会学者などでは、モノグラフをものにするというか、複雑なものを複雑なままに、実態を出来る限り詳しく記述する、これが調査報告だというがいわれていたわけですよね。だから、そこについての理論なんてものはおこがましい考えかたなんですね。

僕は、しかし、僕自身の研究の生い立ちからして、ほかの経済学なり、哲学なりの中で、社会学としてのRaison d'Etreを示したいという形で、社会学的な見かた、考えかたでアプローチしたらどうなるかということに目を据えてきたわけです。
社会学的なものの見かた、考えかたの理論化をしたということになるんでしょうか。


■情報システムの社会学

Q:これも先生は総括をなされた科研費研究『地域における社会情報のシステム化に関する社会学的研究』では、新しい技術が社会に導入されたとき人間や人間集団がどのように振る舞うかという一般論としても興味があるあし、その技術が情報化技術で、社会学的な「役割論」や「コミュニティ論」に直接かかわるものであるいう特殊性もある。このプロジェクトで解明したかったことはなんですか?

齋藤:私のコミュニティ論のエッセンスは一定の地域性というか空間的な限定があってコミュニティ論が成り立つという考えかたなんですね。別な考えかたは共同体という形でいわばゲマインシャフトいう形で本当の意味のフェイス・ツウ・フェイスの人間関係によって出来上がるネットワークみたいなものがコミュニティのエッセンスで、地域的な範囲ということよりも結合の本質がコミュニティのエッセンスだとみる人もいます。こういったコミュニティが新しい情報化技術の導入でどのような姿になっていくかということも考えなければならないですね。

一般論常識からすれば、いわばコミュニティといった一定の空間的な範囲に限定されたものは高度情報化に伴って時間と空間の制約を離れてグローバルに広がってしまうわけですね。
「そして、そこではバーチャル・コミュニティといったものが出来上がると言われているわけですが。しかし、このバーチャル・コミュニティが本当のコミュニティと同じような機能を持ちうるかどうかということはわからんですね。

Q:今回の調査では何を明らかにしょうとしたのですか?

齋藤:さっぱり明らかになっていないんですね。
明らかにしようとした問題自身もはっきりしなくて、要するに、地域のおける情報化といったものも最初はハードなレベルの情報化が進むわけですが、ソフトな情報化:新しい情報機器を使いこなす能力としてのリテラシーなり、プライバシーの保全であるとか、情報公開に対する要求だとか、コミュニティ的なものに対する憧れとかいったものが、こういった情報機器が入り込むことによってどの程度、どういう形で出てくるのかのモノグラフを明らかにしたいというのがこの調査の目的たったのですが。

Q:先ほどでたバーチャル・コミュニティについて。キリスト教が世界宗教なったきっかけはローマ帝国の拡大によるさまざまな部族民の都市への流入があると言われていますが。都市に集まった人びと従来の各部族固有の宗教から離れて共通の宗教的な対象を求めたというわけですが。都市化とか、ネットワークによるグローバル化といったものが新しいコミュニティを形成するきっかけになるのでしょうか?

齋藤:人が集まったとしても本当に心から共同なり連帯性を持つためには同じ人間が出来るだけ同じ場所で長い時間接触して初めて成り立つと思うんだけれど、こういった高度情報化社会では現象的にはたくさん集まってそして接触するけれども大体は一時的で、接触する人が刻々と替わって、だから現象としてたくさんの人が集まっているだけの話で、なかなかコミュニティは成り立たないような気がしますね。


■応用社会学

Q:『応用社会学 調査研究と政策実践』では社会学研究者は政策立案者の依頼を受けて専門的な調査方法を駆使して関連する調査をするといった言わばシンク・タンクのようなものだと理解しています。従って「応用社会学」は単に社会学の「応用」であって学としての体系化は難しいのではないかなと思いますが、如何ですか。

齋藤:社会学的知見の利用に広く関わるのがここで言っている”応用社会学”です。そして利用する場合にどっちが主体になるかによって、応用社会学とは言えないような”アカデミック型”、研究者が中心になって研究者の関心で、これは重要で、あるいは、これが実際の役に立つかもしれないといった、あくまで研究者の関心に従ってテーマを決めて、それに応じて調査をして、結論を出して、そしてこうすればよいといった勧告を出すというスタイルがありますね。

しかし、このような勧告は現実ばなれしておってあまり役に立たない場合が多いですけれど。研究者の関心は役に立つか立たないかというよりも面白いか面白くないか、そしてより基礎的、より普遍的な知識の追求なんですね。これが”アカデミックタイプ”、”研究第一主義”のタイプですね。

これに対して、アメリカ的な社会工学的なタイプでは、企業なり、行政側の依頼者の側からこういう問題があって、こういう方向で解決したいという形で、問題の設定の仕方、解決の方向も依頼者の側が主体になって決めて、この問題を解決するのに必要な社会学的な情報の提示を社会学者に求めるわけです。これがいわば社会工学的、工学的な知識と同じように、社会学者は技術的な知識だけを求められるわけです。
両極端があるわけですね。

僕の”応用社会学”では、プロフェッションしてのソシオロジストがクライアントの困っている問題は問題として一応は取り上げる。クライアントがこれが問題だ、あるいはこうして貰いたいといったようなことは、訴えとはして聞くけれどもこのまま受け取らないで、専門職としての社会学的な知見に従って、本当の問題はなんなのか、あるいは、それをどういうふうに解決したらベストなのか、ということをあくまでプロフェッションの立場で自立的に判断をするわけです。

しかも、どういう処置をしたらいいかという場合にも、アカデミックのタイプには真理が面白いからということにあるのでしょうが、クライアントの本当の利益になるためにはどういう処置をしたらいいか、いわば、プロフェッションとしての良識に賭けて決めて、説得してやるということになるわけです。これが、クリニカル、臨床的な応用社会学なのです。これがあるべき応用社会学でるというのが僕の応用社会学での主張なんですね。

現実には、戦略的共同決定型、クライアントと同じような立場に立って、話し合いをしながら、問題を絞りこんで、どのくらいの金をかけて、あるいはどのくらいのエネルギーをかけて、どうやったらよいかといったことも研究者の立場だけでなくて相手と十分話し合いながら妥協点を見出しながら解を探して、その結果を適用するといった形が現場でも受入やすくて、利用されやすいですね。

Q:最初の質問に戻りますが。先生の言われる”応用社会学”というものは社会学の体系の中でどんな学問的な広がりを持てるのでしょうか?

齋藤:たとえば、僕のいうクリニカル・ソシオロジーは、医学でいう臨床であって、学問としての体系性なんなりをもてないんだけれども、あくまでも科学なり、学問なり知識を土台にして考えるという意味で、それでもいいのではないかという開き直りがあるわけですね。

Q:たとえばですね。少し古いですが、アメリカの核兵器の開発から冷戦の時期に活動したランド研究所というのがありますね。ここではアメリカ政府から諮問を受けて、”応用社会学”と同じようなことを学際的にやっていますよね。で、たとえばゲームの理論などが出てきたりして、学問としての体系も出てきたと思えるのですが。 だから、社会学者だけで”応用社会学”なるものを打ち立てたのでは、そこに学問的な広がりを求めるのはなかなか難しいのではと思うんですが

齋藤:たしかにそうなんですけれど、僕は社会学の独自の貢献はいかにして可能といったことが一番気がかりなんですね。そんなちっちゃな縄張りを張ったんではものの本質は掴めない、役に立つ知識にならないかもしれない、たしかにそうなのかもしれんけれど、なんか、埋没したのでは、存在意義がないような気がして、社会学的なものの見方で、あるいは方法でなにがどこまで明らかにできるのか、ということが社会学者としての僕の役割かなと思っているわけです。

Q:東北大学で応用社会学講座でできた経緯は?

齋藤:僕が学部長のときに哲学科からどうしても独立したかったんですね。哲学科から社会学科というのを独立させたんです。心理学と社会学中心になって、理論社会学と応用社会学と行動科学というか、この三つで社会学科を構成したわけです。本当は、理論と調査(実証)と応用という三本立にしたかったんだげれど、文学部のモーレツな抵抗があって、心理学を巻き込んで”まあまあ”というわけでできたんですよ。

Q:応用社会学というものは、企業から依頼があるとか、産学協同で作るとかというスタイルをとるのでしょうが、日本ではどんなところでやられているのですか?

日本では、あんまり社会学の応用というのは進んでいないんですよね。ただ、最近になって慶応大学の湘南に政策科学部を作ったり、早稲田大学に同じような動きは出ていていますね。
うちの人間情報学も本来政策科学的な、応用社会学的なものであってほしいなと思ったりしているわけですけれども。


■社会学研究のスタンス

Q:先生が書かれた『ホモ・ソシオロジクス』の中で、ホモ・ソシオロジクスと自由な人間とに関連して、社会学研究におけるの研究者あるべき姿についてというか、スタンスについて、ダーレンドルフの文章二度にわたって引用しています。ここでも少し長いですが引用しますと、”人間についての社会学的知識の不十分性についての憂うつさに耐えることのできないものは、この科学に背を向けた方がよいであろう。” これは、学問に向かうとにき、特に社会科学の研究に向かうときに肝に銘じておかなければならないことですね。

齋藤:自由と必然というか。社会学が学問として成り立つためには、価値判断を離れ、事実を事実として明らかにし、学問としての体系を築かなければならないということ。 しかし、社会学はそもそもは現実の問題に対して何程は役に立つ、貢献する、方向を与えるといった使命があるんだいうこと。僕自身はどっちかというと社会学の学問としての体系性なりをまずはっきりさせないとしょうがないという感じがするんだけれども、社会学の生い立ちはこの二つがあるというわけですね。
これは社会学の宿命かもしれませんね。

Q:事実を事実として明らかにするというときに、どのような事実を明らかにしたいのかということは、その研究者の思想性というか、価値判断に懸かっているとおもいますが。これは自然科学でも社会科学でも同じですね

齋藤:社会学は社会学的な視点でやらなくてはいかんということ。しかし、社会学は社会学のためにあるのではなくて、現実を解明するためにあるんだから、という二つが何時でもあるんですが。
現実を解明するためには、社会学的視点ということになると、どうしても限定されて、かならずしも、人間の自由とか、あるいは責任といったことについての考察を放棄せざるを得ないわけですね。特に、僕の言う自然科学的ものを科学のエッセンスと考えると、全て因果関係でみて行くわけです。あくまでも原因を探り、原因の原因を探りというかたちで、個人の主体的な責任とか、人格なんてものは、因果関係のアプローチでは出てこないですよね。

しかし、一方、人間は責任のある行為の主体者ですから、責任とか、あるいは、選択ということを考えなければならないわけです。これは、僕の学問としての社会学からはなかなか入り込めない領地なんですね。しかし、社会学はこれをも課題にしているんだということ。

Q:社会学の対象としての人間は限定付きだよということですね

齋藤:僕が結びで言いたかったことは、これから社会学を学ぼうとする人間はそういった限界があるということを自覚して、人間の責任とか自由とか、そういったことまでも十全なかたちではやれないのだという、自分の職分としてこれしかやれないということを覚悟しておけ、ということだったんです
少なくとも、学者たるもの、教育者たるものはこのくらいの禁欲を持たなければ正直でないという感じがしているわけですよね。

 最後のお話はウェーバーの「職業としての学問」で言ってることと二重写しのように見えています。人間を対象とする学問が自然科学的な方法論をとろうとすると避けれないことのように思えます。
 短い時間でしたが、齋藤先生とお話をさせていただきましたが、話しかたそのものとその風貌にある種のカリスマ性を感じました。そして、社会学に懸ける情熱といったものや視野の広さには敬服しました。ありがとうございました。

(1998年12月10日収録)

※ このページは、1999年3月刊行の『人間情報学研究 第4巻』に掲載された記事を元にしております。その後、略歴や所属等に変更がある場合がございます。


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