HOME>活動記録>シンポジウム中国北方新石器文化研究の新展開【詳細報告】>東北アジアにおける先史文化の交流
東北アジアにおける先史文化の交流
王 巍(中国社会科学院考古研究所・副所長)

1.中国最古の土器
 中国最古の土器は数年前、北京市の南にある河北省徐水南荘頭で発見され、C14年代測定によって今から1万500年前のものと分かった。10数片の土器の破片とともに石皿・磨棒・骨製のヤスも出土した。また、これと年代がほぼ同じかやや新しい遺跡は、中国の南の江西省寓年仙人洞や広西省桂林甑皮岩(そうひがん)でも発見されている。中国における土器の出現年代は日本と大体同じだと思われる。

2.3つの文化圏
 中国の新石器時代文化を概観すれば、揚子江中・下流域を中心とする稲作文化圏と黄河中・下流域を中心とする雑穀文化圏と東北地方の遼寧省西部を中心とする採集狩猟漁労が卓越する文化圏という三つの文化圏に区分できる。

3.稲作文化圏
 稲作文化圏の代表的文化は揚子江下流域の河姆渡(かぼと)文化である。河姆渡遺跡では、多くの高床式建築遺構が発見され、一番大きいのは長さ23m以上、幅7mである。この遺跡から土器、石器、玉器、骨器、木器と漆器など豊富な遺物が出土した。骨製の鋤と木製の農具を主にする生産道具だけで数千点に達する。代表的な土器は丸底の釜である。また、大量の炭化米、籾殻、稲の茎と葉が検出され、稲作農耕が行われたことを立証している。家畜とされた豚と犬の骨も出土した。一方、クヌギ、ヒシ、モモなどの実、サネプトナツメ、ヒョウタンなどの植物とシカをはじめとする鳥、魚を含む40種類以上の野生動物の骨も発見された。当時、稲作農耕のほか、採集狩猟漁労も行われたことがうかがえる。

4.雑穀文化圏
 雑穀文化圏の代表的な文化は大地湾文化、裴里崗(はいりこう)文化、磁山文化、北辛文化などである。これらの文化の年代は大体8000〜7000年前であり、一部の遺跡からアワかキビが検出されている。とくに磁山遺跡では、数10基の貯蔵穴から大量の炭化したアワが発見され、その量は50トンと推定されており、雑穀農耕の発達を物語っている。なお、陝西省南部の李家村遺跡と河南省中部の賈湖(かこ)遺跡で炭化米も検出され、当時の黄河流域では、雑穀とともに米も栽培されたことが最近の調査で明らかになった。家畜としては豚・犬・牛・ニワトリが飼育されていた。一方、クルミ、クリ、ハシバミ、ナツメ、ウメなどの植物の実とシカ、イノシシ、タヌキ、アナグマ、ノウサギ及びワニ、亀、魚などの野生動物の骨も多く検出され、採集狩猟漁労などの生業が人々の生活においてかなりの比重を占めていたことがわかる。

5.中国東北部の興隆窪文化
 ここ十年来、中国の東北地方で先史時代の重要発見が相次ぎ注目されている。興隆窪(こうりゅうわ)文化の発見はその一つである。この文化は内モンゴルと遼寧省西部の墳にある興隆窪遺跡によって名付けられたものであり、今から8000〜7000年前の文化で、東北地方で最も古い新石器時代文化である。
 興隆窪遺跡は低い丘陵に立地する環濠集落である。1983年から1993年にかけて、私の中国社会科学院考古研究所の内モンゴル発掘チームがこの集落を全部発掘した。この環濠集落は長径183メートル、短径163メートルの楕円形のもので、その面積は2万平方メートルあまりである。環濠は幅1.5〜2メートル、深さ1メートルぐらいで、防御施設というより、集落の範囲を区画する目的で出来たものであろう。集落の中に前期の竪穴住居址が80基ぐらいあり、八列に並んで環濠集落内の全域に分布している。これらの住居地はほぼ同時期のもので、環濠集落ができた時点で大体同時に築かれたと思われている。住居址の大きさは40〜50平方メートルのものが多い。最も大きいのは140平方メートルもあり、集落のほぼ中心部に位置する。後期の住居址は70数基発見されているが、ほとんど環濠集落の外に位置して、それも数列に並んでいる。住居址の面積は前期より小さくなった。各住居の中に地床炉がある。集落の墓地が未発見であるが、20基ぐらいの住居址の床面の下で土壙墓が発見され、(けつ)状耳飾り、土器などの副葬品が出土している。ある墓には、1人の被葬者と2頭の豚が埋葬されている。このような住居址の下に埋葬される被葬者は、足や手などが欠如する例が多く、特別の原因で死亡した可能性があると考えられている。また、ある住居址の中に豚の頭の骨が数個か10数個集中する例も見られる。その年齢は3歳以上のものが多い。それは家畜として飼育されたものかどうか議論のあるところである。集落の中で、貯蔵穴が多く発見され、前期のものは集落の東北部に集中する傾向が見られ、後期の貯蔵穴は住居址の近くか住居址内に位置するものが目立つ。貯蔵穴は円形のものが多く、フラスコ状のものも見られる。その中から多くの魚の骨あるいはクルミなどの堅果類植物が検出され、冬の食料を貯蔵するものだと思われる。 興隆窪遺跡の土器のほとんどは平底の円筒形土器であり、口縁外部、頸部と胴部にはそれぞれ違う文様を施すのも特徴的である。連続の櫛目文が最も代表的な文様で、そのほか周回文、押型文、箆(へら)描き文、爪形文などがある(図3)。
 興隆窪文化の石器は打製の鋤が一番多く、そのほか石皿、磨棒、スクレーバー、石庖丁、磨製石斧などがある(図4)。また状耳飾り、擦り切り技法で作られた玉斧、玉管と玉匙(ぎょくひ)などの玉器も出土している(図5)。状耳飾りは今まで最古と言われていた河姆渡文化のものよりほぼ1000年古く、東アジアで一番古いものである。
 興隆窪遺跡からクルミが多く検出されている。遺跡の花粉分析ではマツ、ヨモギ、禾本科(かほんか)、タデ、マメ類、ウラボシ、イワヒバなどの植物の花粉か胞子が検出された。興隆窪遺跡から200キロ、年代はやや新しい(7000年前)沈陽市新楽(しんら)遺跡では、カシ、ハシバミ、アンズ、ナツメ、サンザシなどの炭化した種やイチゴの葉、ニレの炭化木、カバノ木の皮などが検出された。これらの文化の分布地域は、今は砂漠に近い草原地帯であるが、8000年前このあたりは落葉広葉樹と針葉樹の混交林地帯であり、当時の気候は温暖湿潤で、今より住みやすい環境であったことがわかる。
 こういう環境の中に住んだ興隆窪文化の人々の生業は多種多様であり、クルミなど堅果類の採集、シカ類を主な対象とする狩猟、河川での漁労が主な生業であった。一方、石鋤の多量出土や、禾本科とマメ類花粉の検出によって、栽培あるいは半栽培も行われた可能性も強い。また、豚の飼育が行われ始めたかもしれない。いずれにしろ、興隆窪文化の生業は先に述べた黄河流域の雑穀農耕文化と異なり、採集狩猟漁労が卓越した文化だということは間違いなさそうである。

6.興隆窪文化の広がり
 興隆窪文化後期の遺跡は内モンゴルの白音長汗と遼寧省西部の阜新市査海でも発見された。白音長汗遺跡では、住居址の中央に板石で囲んだ方形の炉が出現、環濠集落の近くの尾根に横石墓または石囲墓が営まれ、いろいろの玉器が副葬されたことなどは興隆窪遺跡に見られない特徴である。
 査海遺跡では、集落のほぼ中央部で、赤褐色の石で積んだ龍形配石遺構が発見された。長さ19.7メートル、龍の体の幅は2メートルぐらいである。その遺構の下で、成人の土壙墓と祭祀壙が発見され、副葬品のない墓が多いものの、22点の石器を副葬した墓もある。
 中国の東北地方では、興隆窪文化の後期とほぼ同時期またはやや新しい文化がいくつか発見されている。遼寧中部の新楽文化、遼寧南端部の小珠山文化、吉林中部の左家山文化などはその例である。これらの文化の生業、石器と土器の種類と特徴は、興隆窪文化に似ているところが多く、採集狩猟漁労文化圏内の諸文化であることは明らかである。

7.興隆窪文化以後
 興隆窪文化の終結以後、東北地方の文化様相に複雑な変化がおこった。遼寧西部には、本格的な農耕が出現した。興隆窪文化を受け継いだ趙宝溝文化では磨製石鋤と打製石庖丁が大量に出現し、花粉分析でも、森林の花粉の減少と禾本科花粉の増加が目立つ。土器には、櫛目文や箆描き文を施した変形円筒形土器のほか、シカ、イノシシ、鳥の文様が施された精製の壷形土器が現れた。
 趙宝溝文化のほぼ終末期に一つの新しい文化が遼寧西部に現れた。それは有名な紅山文化である。今から6000〜5000年前の約1000年間続いたこの文化は、中国の黄河中・下流及び河北省の農耕文化と交流しながら農耕をさらに発展させ、発達した農耕社会が成立した。等身大かそれより三倍大きい女神像が置かれた祭祀建築とその傍に4万平方メートルに達する祭祀用の平台、一辺20メートルぐらいの積石塚、直径数10メートルで二重か三重の円形の積石塚(図6)と祭壇及び祭壇のまわりに立てられた彩文を施した筒形土器、小型の銅器とその鋳型の出土など、さまざまな発見は人々を驚かせた。東北アジアの文明の曙とも言われている。
 一方、趙宝溝文化とほぼ同等に、興隆窪文化の伝統を受け継いで、採集狩猟漁労を主な生業として続けて行った文化もある。興隆窪遺跡より北へ約250キロの富河溝門遺跡で、富河文化はそこから命名された。この文化の土器は櫛目文が施された円筒形土器で、石器は打製石鋤、石鍬、石斧と石皿、磨棒及び大量な細石刃などがある。骨製の鍍、釣針、やすが非常に多い。遺跡から動物の骨が多く出土しており、その中ではシカ類が最も多く、50%ぐらいを占める。次はイノシシ(17%)とアナグマ(9%)であり、そのほかノヒツジ、キツネ、キタリス、イヌ科、鳥類などがあり、家畜と言えるものが発見されていないということである。
 また、今から6000年前に黒龍江省の東部の興凱(こうかい)湖の近くに新開流文化という漁労を中心とする漁労狩猟採集文化が存在していた。新開流遺跡から何枚もの魚骨が重ねて出土する貯蔵穴が多く発見されて、魚を貯蔵する施設だと思われている。遺跡から出土した道具は、鏃、銛、やす、釣針など狩猟漁労用のものがほとんどであり、農耕関係の道具が乏しい。当時の人々の生活は湖と森に依存する漁労狩猟採集によるものであり、とくに漁労の占めた比重は大きいと考えられる。この遺跡は中国とロシアの国境地帯に位置し、この新開流文化はロシアの方にも分布しており、チョールトヴイ・ヴォロタ洞窟やロドナイァ遺跡はそれである。注目すべきは前者から状耳飾りが出土している。
 一方、朝鮮半島の東北部の西浦項文化の早期は、平底の円筒形土器と櫛目文、箆描き文などの要素から見て、やほり中国東北地方を中心とした採集狩猟漁労卓越文化の一つだと考えられよう。

8.三内丸山遺跡との類似点
 日本の縄文文化を先に述べた中国の三つの文化圏と比較してみると、明らかに中国の東北地方の採集狩猟漁労文化圏の諸文化に似ている。特に三内丸山遺跡と興隆窪遺跡とは、次のように類似点が多い。
(1)北緯40°をやや越える緯度に位置すること。
(2)当時の環境は落葉広葉樹林地帯であること。
(3)低い丘陵に立地すること。
(4)長い期間の定住集落であること。
(5)土器は主に平底の円筒形土器で、土器の表面に全部文様を施す。口縁部、頸部と胴部という三つの部分で、その文様が異なること。
(6)石器は打製石器が多く、磨製石斧もあり、石皿と磨棒は食用植物の調理具として使われたこと。
(7)状耳飾りの存在。
(8)住居は堅穴住居であること。床のほぼ中央に地床炉があること。
(9)墓は土壙墓であること。
(10)生業は主に採集狩猟漁労である一方、食用植物の栽培か半栽培が行われた可能性があること。
(11)あとを受け継いだ文化は石で祭祀遺構と墓を築く風習が出現すること。とくに二重か三重の配石遺構の存在とそれによって反映された原始宗教の類似性の存否に注目すべきである。
 2000キロぐらい離れている両地域の文化がこれほど多くの類似点を持つことは実に興味深い。縄文文化は日本独特な文化と言われているが、三内丸山遺跡の発見をきっかけにして中国東北地方、朝鮮半島東北部、ロシア沿海州南部、日本とくに東日本という広い地域が、数千年前の自然環境とその変化の流れ、人々の生業、定住集落の出現、風土と気候による住居の構造、生業による土器の種類と形及び石器の種類、環境と生業と関連する原始宗教の出現など、様々な共通性を持つことを指摘したい。これこそが、三内丸山通跡の国際性及びその意義の一つではあるまいか。
もちろん、三内丸山遺跡は興隆窪ないしほかの中国東北部及びその近辺の遺跡との相違点もある。例えば、集落の規模の差、定住期間の長さ、集落内遺構の種類と規模の差、食料とした植物と動物の種類の差、石器など道具や生活用具の種類の差などが挙げられる。
 しかし、これらの相違点を分析すると、環濠の未発見を除けば、集落と遺物に関する差のほとんどは三内丸山遺跡の方が相手を上回ることを否定できない。 それは年代の差による面もあろうが、何よりの原因は、三内丸山遺跡の性格だと思う。つまり、三内丸山遺跡は単なる遺跡近辺的遺物群の拠点ではなく、その規模と集落の内容及び大量の出土品を見ると、青森市のみならず、東北北部及び北海道南部に分布する円筒形土器文化の中心的な拠点、少なくともその一つだと言えるのではあるまいか。
 中国の東北地方の採集狩猟漁労文化のほとんどは、黄河流域から伝来した雑穀農耕文化の強い影響で変質され、それまでの生業は大きく変わり、文化全体も激しい変化がおこった。社会の進歩につながるものであるが、その発展は集落の外からの力による部分が大きいと言わざるを得ない。それに対して、三内丸山遺跡の場合は、ほかの地域と交流しながら、自ら環境の変化と人口の圧力に挑戦し、食用植物(例えばクリ)の管理か半栽培の技術を身につけることによって大きい集落、多くの人口を維持していた。その植物の採集から管理、半栽培を経て、栽培・農耕へ発展することは人類の生産活動の発展の歴史においては、極めて重要な変化である。それにしたがって、人類の生活様式、社会の組織、宗教信仰などさまざまな面で色々な変化がおこったわけである。 残念ながら、今までこの生業及びその他の変化の具体的な過程が究明されていないことが多い。 三内丸山遺跡の発見はその具体的過程を究明する貴重な資料を提供してくれた。
 戻る