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公開シンポジウム
モンゴルという世界
 【概要報告】 (【開催要項】はこちら
 
「内モンゴルと外モンゴルのあいだ」 中見 立夫

 いま、モンゴル人がつくりあげた独立国家、モンゴル国には約240万人のモンゴル人が暮らしている。一方、中国にはモンゴル国の人口に倍する480万のモンゴル系のひとびとがいる。そのうち、340万人ほどは内モンゴル自治区で生活している。モンゴル国は、80年代までの社会主義時代には、国名をモンゴル人民共和国としていたが、清朝時代には「外モンゴル」と呼ばれていた。
 民主化以前のモンゴル国における、モンゴル史記述には顕著な特色があった。古代から大体1911年までの時期に関しては、モンゴル高原で活動したすべてのモンゴル人の歩みを書くのだが、ほぼ清朝中期以降については、当時のモンゴル人民共和国のモンゴル人のことだけを取りあげていた。つまり、1921年の「モンゴル人民革命」により結実した、かれらの独立への過程を総括することに、歴史記述の目的があった。
 一方、中国で出版されている「モンゴル民族史」の叙述はこれとは対照的である。そこでは、清朝中期までは、すべてのモンゴル「民族」の活動が描かれる。しかし、1911年つまり辛亥革命以降、とくに1921年からあとの時期については、現在の中国領域内におけるモンゴル人の動きだけが対象となる。
 近代世界にあって、内モンゴルのモンゴル人と、外モンゴルのモンゴル人は相互に接触のない、それぞれの道を歩んでいたかというと、全くそうではない。内モンゴルと外モンゴルのあいだに目を向けるとき、「民族」という問題、国家に収斂される「国民」の概念、そして「地域」の認識に対して、あらたな視座が浮かびあがる。


 
「20世紀モンゴル史のなかの1945年」 田淵 陽子

 20世紀前半期を通じて「外モンゴル」と「内モンゴル」は、それぞれソ連と日本を後ろ盾とする政治的対立の構図に組み込まれた。1924年にモンゴル人民共和国が樹立された「外モンゴル」では、ソ連による「衛星国」化が進められ、他方、「内モンゴル」では日本の満蒙政策のもとで「満洲国」や「蒙古連合自治政府」が樹立された。
 20世紀モンゴル史のなかの1945年は、日本の敗戦に伴う中ソ友好同盟条約によって「モンゴル独立問題」が解決された一つの転換期であった。中ソ関係の懸案事項であった「モンゴル独立問題」とは、「モンゴル人民共和国(外モンゴル)の独立問題」に限定されるものであったが、清朝判図の継承を前提としていた中華民国国民政府が「外モンゴル独立」を承認したことは、現代モンゴル社会の国際政治における政治地単位としての枠組みを決定づけた重要な転換期であった。
 他方、モンゴル地域社会のなかで歴史的に蓄積されていた「モンゴル独立問題」とは、20世紀前半期における「内外モンゴル統一」運動の挫折と葛藤の記憶であり、また、1945年という歴史的現実のなかで潰えた夢であった。「内外モンゴル統一」運動の歴史的諸相は、「モンゴル人民共和国史」や「中華人民共和国内蒙古自治区史」といった国民国家の歴史叙述のなかでタブー視され、消極的且つ否定的に扱われてきたところに特徴があった。その意味で、20世紀モンゴル史のなかの1945年は封印された歴史とアイデンティティの記憶であり、研究の空白地帯であった。
 東西冷戦体制の崩壊を経た今日において、国民国家の枠組みを超えた広義の地域研究、冷戦イデオロギーから脱却した実証研究は、モンゴル近現代史研究においても重要な課題となっている。このような視座から、ここではフルンブイル(呼倫貝爾)地域を事例に、20世紀モンゴル史における1945年の歴史的位置づけを試みることによって、東アジア地域社会の歴史的アイデンティティの多様性と多元性へ接近してみたい。


冬のモンゴル
Kh.チョイバルサン(1895-1952):1945年当時、モンゴル人民共和国首相・外相・モンゴル人民革命軍元帥を兼任し、スターリンとの親密な関係のなかで確固たる権力を掌握していた。
マンライ王ダムディンスレン(1871-1920):フルンブイル(現在の中国内蒙古自治区呼倫貝爾市)出身のモンゴル・シンバルガ族。1911年末、ボグド・ハーン政府に参画しモンゴル民族の統一と独立を目指すが、1915年キャフタ協定によってその夢が絶たれた後、外モンゴルへ移住した。
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